世の中は芸術の秋、ライブやコンサートも目白押し。
ここはござさんのブログなのでござさんの直近のコンサートの広報を貼っておきます。
年明けのソロコンサート、公式から素敵なビジュアルが公開されているので、懸垂幕がわりに冒頭に置いておきますね。
ござ ピアノソロコンサート2023 "Winter Special"
2023年1月15日(日)
チケット販売開始したので改めてツイートを。
— ござ 🎹1/15日ソロライブ (@gprza) 2022年10月31日
「ござ ピアノソロコンサート2023 "Winter Special"」
<配信視聴チケット>https://t.co/OHHEEMAPzv
<有観客・オフィシャル先行&一般>https://t.co/yOeaRzGB3Q
お待ちしております! pic.twitter.com/lEM6pXMZg2
ござさんのイメージカラーは、「ござ」から取られた緑色です。
コンサートは真冬の真っただ中ですが、寒さの中に春の息吹を感じるような爽やかなグリーン。若葉の間から木漏れ日が揺れるさま、ござさんのピアノにも通じるようなきらめく光を思わせるイメージ。
めくるめくまばゆい音が即興のピアノに乗せて客席に届けられることでしょう。
しつこいようですが繰り返し書いておく。
現在のチケット販売スケジュール:
[オフィシャル先行受付(先着)]
10/29(土) 12:00〜11/13(日) 23:59
販売サイト:ござのチケット情報 - イープラス
[配信視聴チケット]
発売:10/29(土) 12:00〜
販売サイト:ござのチケット情報 - イープラス
ござさんの公式HP:ござ オフィシャルサイト
プログラミングと人間
ふと自分の昔の動画を見るなどした。選曲やら何やら自由だなという印象(まあ今も自由なんですけど)
— ござ 🎹1/15日ソロライブ (@gprza) 2022年11月1日
選曲が自由…?
ピアノ界隈ではござさんの膨大なレパートリーは、自由を通り越して他者の追随を許さない域にあると思う。実際に同様なことをできる人を自分は知らない。なぜならその維持保全には、日々の絶え間ない研鑽によるメンテナンスが欠かせないからだ。
どれほど微に入り細を穿つきめこまやかな練習を重ねればいいのだろう、想像もつかない。
ござさんのピアノはただ凄いのではなく、息遣いまで聞こえてきそうな生身の感覚によって維持されている。
ござ動画体感難易度ランク
— ござ 🎹1/15日ソロライブ (@gprza) 2022年11月1日
1.シュレーディンガーの猫(年末年始が練習でつぶれた)
2.少年は空を辿る(何テイクやった分からない)
3.Macuilxochitl(録音体制が確立されておらず何テイクやったか)
4.Hit me(練習2週間)
5.216番道路(録音は楽だったけど練習は断続的に2年位)
1~4は再練習しないと弾けません
自分でアレンジして、それを弾けるかどうか自分で人体実験し続けてきたおかげで、「これは人間が弾ける/弾けないフレーズだ」みたいな肌感覚が身についた気がします。人体実験大事。
— ござ 🎹1/15日ソロライブ (@gprza) 2022年11月1日
出来ないといってあきらめる前にまずやってみる。
自分の体で、感触で限界を知る。
そうやってござさんは常に視線の彼方に見える地平線上のボーダーラインに挑戦してきたのだろうし、そこまでの距離を知ることで、領域というか視野に幅、厚みが出てきたのかもしれない。
ひたすら感覚でピアノのすべてを推し量るござさんに、AIの世界は一線を画しているのではないだろうか。取るに足らない存在、気に掛けるまでもないのでは。
AIは利用するために開発されたのだろうけど、ではござさんにこれを利用する意味があるのだろうか、というと、いささか物足りない部分があるように感じる。
ピアノアレンジ生成AIが来たようですね。人間が好きな曲をピアノで弾くためのハードルが下がっていく。便利な時代だ https://t.co/gN01BnNOXs
— ござ 🎹1/15日ソロライブ (@gprza) 2022年11月3日
AIはそういう種類のプログラムだ。指示を与えて何かを生み出すもの。
その人工回路に、人間の演奏とは決定的に乖離しているものがある。
それは感情が存在しているかどうかだ。
感情を介さなければ、音階の羅列にすぎない。まるで信号が青の時に流れる自動音声のよう。感情が存在しない音階というのは、音楽とは言わないのだ。
ござさんにかかれば鉄道の発車メロディーのような明らかな打ち込み音源でさえ命を与えられて動き出すというのに。
街に出るとこういうまったく役に立たないアイデアを思いつくことありますよね pic.twitter.com/X41UZorO5S
— ござ 🎹1/15日ソロライブ (@gprza) 2022年8月22日
よってござさんのアレンジは、機械には再現不可能な音楽ということになり、AIは今の所ござさんの練習の補助としても、またござさんの音楽を脅かすものとしても、どちらにもなり得ない、と自分は思う。
単なる素人の持論だけど。
AIさながらの人力によるアレンジパターン習得過程も、配信画面越しに間近で拝見できましたし。
たとえば、今話題のアニメ、チェンソーマンOPの 「KICK BACK」。個人的には、ウチの高2男子はチェンソーマンは表現がエグいから見ないそうで、自分もOP映像見たが確かにアニメはご遠慮したい。夢に見そうだ。そこで米津玄師の新曲MV見て復習した。
人間とは思えない左手の16ビート(?)から繰り出される原曲さながらの演奏。
「う~ん聴いてみたけど弾いた事ないんだよな~」
とぼやきながら、
「サビ思い出せないな~」
と頭をひねりつつ、しかし一瞬にして出来上がる伴奏とアレンジ。ござさんのいう弾いたこと無いというのはつくづく参考程度にもならないと思い知った。
そうだった、生配信のリンク貼り忘れてたので置いておきます。
というわけでこの記事は10/29(土)の生配信ライブの感想である。(←遅い)
ありえない演奏といえば?
この回、ほかにもござさんのヘンタイ……いや超人的ピアノが聴ける曲がある。
上記の、KICK BACKの左手のビートも色々完コピですごかったんですが。
生配信ライブ1:56:18~の剣の舞。
ここの左手がやばい(語彙力)。具体的にいうと、右手メロディーが無い箇所以降の左手の跳躍がやばい。
今回のござさんの左手の動きと全く同じパートを、鍵盤の真後ろから見れる動画として。菊池さんすいませんリンク貼らせていただきます。
この動画、菊池さんとたくおんさんの連弾となっているが後半部分は剣の舞(頭出し済み)となっている。そこの3:38~で菊池さん曰く「ヤバい跳躍」と銘打ってくれてる箇所のことだ。
ん?わかりにくい?
Khachaturian: Sabre Dance / Ozawa · Berliner Philharmoniker - YouTube
本家のオケも貼っとこう。(みどころは華麗なシロフォンのソロでもトロンボーンのグリッサンド降下でもなく)オケでいえば、ここの箇所(頭出し済み)でメロディの合間にズームアップされてるティンパニをたぶんピアノの左手で再現されてるということだ。
いやだからピアノの左手だけでね?
人間としてなかなかありえないことやってますよね?
そこでポッカーンと魂の抜け殻になって眺めてる自分の前に、さらに熊蜂の飛行が現れて、自分はあっけなくなぎ倒されていった……
もうちょっとひとりごと言っていいですか。たぶんこの2曲はシフラ編曲版だと思う。
シフラとは?超絶技巧アレンジで知られるピアニスト。
ジョルジュ・シフラ - Wikipedia
自分がござさんを知ったのは、ござさんが介護士をやめた直後、つまり2020年2月ごろ。その少し前の撮影としてyoutubeに上がってる熊蜂のストピ動画がある。横浜の関内ストピ。ただしござさんのチャンネルではなく単なる個人の方が上げてるのでここにリンクは貼らないが。ござさんのピアノがすごいのは薄々わかってたけどこの動画で嫌っていうほど思い知った気がする。
今回の生配信で久しぶりにこの2020年の熊蜂のyoutube動画を見てみたが。
あの時の新鮮な感動と衝撃はそのまま。
でもやっぱり今のござさんの演奏のほうがずっと、何倍も生き生きしている。
それからの期間、練習を積んできたから?
ござさんには演奏難度とかいう楽譜についてる縮尺みたいのは関係なくて、人体実験でじっさいに肌で限界を察知してきたのはあるだろうけど。自分も若いころは「テクい時代」があって難易度で音楽を聴いていた側面はあった。
でもござさんの演奏には「テクい時代」の論理とは別の尺度で推し量るべき別の顔がある。
自分はそっちに魅入られたようになって、心を掴まれたまま動けない。
坂本龍一さんの曲はいつぞやは「弾ける曲、あるかなあ~~」と言いながら、今回メドレーでやってくれるくらいにはレパートリーが豊富だ。
なんで坂本龍一さんなんだろう?
アレじゃないですか、同じ天才肌の編曲者として血が騒ぐんじゃないでしょうか。
YMOではキーボード奏者だったわけで、同じ楽器を操る立場から、自然と派生してアレンジを思いつく、とか…だって時代からいうとござさんはYMOをリアルタイムでは知らないはず。
その音作り自体に共感というか共鳴したのでは?
さらにYMOを追ってただけでは分からない映画音楽も網羅されてるし。
映画「ラストエンペラー」、それはある皇帝だった男の生涯。
ござさんが弾いてくれたのはそのラストシーンで流れている。老いた主人公が、玉座から持ち出されたコオロギを映画冒頭と同様に受け取るシーン。その裏に流れる無常ともいえる歴史のうねり……
邯鄲の夢。(※ 故事成語: 邯鄲の夢とは - コトバンク )
そんな悲喜交々の感情も織り交ぜて、ござさんのピアノは静かに語り続ける。
米津玄師さんの曲を何度もメドレー弾いてくれるのも、全く同様な理由だと思う。
音楽の分野はボカロをもとにしてるという点が違う点だけど、作曲、編曲者、クリエイターとして共鳴?尊敬、リスペクトしてるからにほかならないだろう。
どの曲も、テクいだけじゃなくて、音符を追ってるんではなくて、感情の緩急を駆使しながらその楽曲の真の姿を顕にさらけ出す。
ござさんならではの解釈?
でもござさんの指が触れた途端、その楽曲は鮮やかな色彩をまとい、水を得た魚の如く勢いよくしなやかに音の海を泳いでいく。
ござさんに温かい視線を注がれて丁寧に解釈・アレンジされた曲たち。米津さんの曲はとりわけ慈しまれてるのがよくわかる。
余談だが。
髭ダンの曲も全く同じことがいえると思う。投稿動画でも生配信でも、髭ダンの曲はひときわ精彩を放っているからだ。
最近の曲はコード進行も複雑、昭和の楽曲のほうが素直なつくりでいい曲が多いと常々語りながらも、これらの米津さんと髭ダンの曲は逐一新曲を習得されていることからも、並々ならぬござさんのそれらの楽曲への熱意がうかがえる。
KICK BACKの入荷なんて超早かったし。なんも理論がわからない自分が見てても、弾いててほんと楽しそう。
自分が思うござさんとピアノの関係
ピアノといえば?
クラシック音楽。現代音楽に至ってもあくまでその語法を踏襲されている。
壊れ物に触れるかのような繊細なタッチ。
華奢な響き。
端正な和音で重低音が鳴り響き、厳粛な空気に支配される。
馥郁たる上品な薫りをまとったやわらかな音。
何百年もの間研究と解釈、演奏技法の検討が重ねられ、その歴史の重みを感じる音楽は誰からも愛されて、どんな場面にも映える。
でも、クラシックのピアノ教室を子供の時にやめ、吹奏楽とか一周回ってござさんのピアノに出会った身からすると、クラシックピアノはあくまで音楽のひとつの側面にすぎない、と思うのだ。
詭弁?
そう、これはあくまで自分の一個人の意見。
どっちがどうとか言うことではない。
自分はござさんが作り出す、あらゆる感情をのせた音楽、世の中のあらゆるものを映し出す音にひきつけられる。
ござさんが今までみてきた色々なひとの人生が、経験値としてすべて音楽に織り込まれているからだろうか?
あの優しい音は、それだけ色々な苦労をみて、辛酸を舐めてきたからこそ出せるものではないだろうか。
秋の夜に物思う
白雲に羽うちかはし飛ぶ雁の数さへ見ゆる秋の夜の月
(古今和歌集191 読み人知らず)
現代語訳:白雲の浮かぶ空を羽を重ねて飛んで行く、雁の数までもはっきり見える秋の夜の月の明るいことよ。
石ばしる滝のしら玉数見えて清滝川にすめる月かげ
現代語訳:岩石の上を走り流れる滝の飛沫の数がかぞえられるほどに見えて、清滝川には澄んだ光とともに美しく月の姿が映っている。
冷え込みが増した秋の夜は虫の音も鎮まっている。
月夜の幻想的な空間は静寂に支配されていて、ただ黙って自分は庭の柿の老木の、地面に落ちて伸びている影を眺めていた。
空を見上げると、満月の半分にも満たないように見える月が、流れる雲にその姿を隠す。
一瞬消えたかと思う光はまた雲の陰から差し込んで、夜空に皓々と輝いている。
追いかけて・・・
チャゲアスの、この歌の歌詞がちらりと脳裏をかすめた。
[LIVE] 太陽と埃の中で / CHAGE and ASKA / CONCERT TOUR 1990-1991 “SEE YA!” - YouTube
(歌詞)CHAGE and ASKA 太陽と埃の中で 歌詞 - 歌ネット
姿が見えたかと思うとまた見失いそうになる。
背中を追うことしかできないけど。
でも、追いかけている時間が幸せなんだ。