ござさんの魅力を語る部屋

ピアニストござさんについて、熱く語ります

ござさんの演奏を聴いて--平安神宮 桜音夜 紅しだれコンサート2023

 

言葉は寡黙にして雄弁だ。音楽と同じように。

この部屋で使う語彙には色々深読みできるような幅をもたせてある。

行間に潜んだ空間的な広がりを背景に、読む人によって様々な解釈をしてもらえるような設定。

ござさんの音楽は不可解な構造の宇宙みたいだから、聞く人の数だけ受け取り方には差がある、はず。

この記事を読んでる人それぞれが抱くござさんの演奏への感情……

自分の発想はそれらとリンクできてるかは分からない。とにかく針の穴のような少数派向けに書いてるつもりのこの部屋だけど読んでもらえてなんか感じてくれたら幸甚です。

 

 

とりあえず聞くと、聴くを使い分けてる。

聞くーー通りすがりに聞こえる、偶然耳にする。

聴くーー傾聴する、集中して聴く。聴き入る。

音楽は、聴くものだ。

生活の中で多忙に取り紛れながら聴いてることもあるだろう、でもそういう時も聴いていたいのであって、ただ聞くのではない。

 

つまりこの部屋ではござさんの演奏は聴くものであり、読んでくれてる人もござさんのピアノを聴いてる人、という想定で書いている。

(相対的にござさん以外の演奏家の方に言及することがあるとしても、読者の意向には関わりなく、演奏家さん達に敬意を払って、演奏を聴くという表現をこの部屋では使う。)

 

 

目次:クリックで各項目へ飛べます

 

 

 

 

ござさんはここ10年来、主にネット上で演奏を配信したり動画投稿してきた演奏者だ。(コロナ流行と同時期に音楽専業になって多様な活動をし始めたのは、ネット配信のキャリアの中ではごく最近の話。)

そのYoutubeチャンネル登録者は最近漸減の傾向にある。思えばストリートピアノ動画を投稿されていたころに増えた登録者数だから、最近スタジオ動画投稿と生配信が主な演奏活動なので、新規に登録する人よりもストピ好きな人が登録を外していく人数の方が多いという現象なのかもしれない。

 

しかしストピは通りすがりの「ござって、誰?」って言う人が偶然ござさんのピアノを知ってくれるまたとない機会だった。

また同時に、ストピ動画というのはそのキャッチーな性質から、バラエティ番組をテレビで見る感覚で(ひょっとしたらYoutube動画もテレビで見てる人も多いかも)、気軽に色々見て楽しんでいる人が多いと思う。

 

ござさんの最近のスタジオ動画はバラエティ番組とは違ってコンサートで聴くような構成だから趣旨は違うとしても、気軽に入れる入り口として機能していることに間違いはない。

ただ気軽な存在だからその視聴者は入れ替わりも激しいだろう。

つまり主な足場がYoutubeのみだと、いつ足元を掬われるかもわからない。

 

同じくyoutubeの生配信は視聴者数にそう変動は見られない。つまり長く聞いてくれてる人が多いというその反面、おそらく新しい視聴者さんは目に見えては増えていないのではないか。

つまり視聴者数は、1回の配信で累計(アーカイブの再生期間も含めて)だいたい3万回 は超えない。要するにそれが今アクティブにござさんチャンネルを聴いてる視聴者数。

 

ストピで通りすがりの人に聞いてもらう機会は、今の所ない。

マスコミとかジャーナリズムに露出する機会も特にない。

つまり喫緊の課題は何よりも初見の人に演奏を聴いてもらって存在を知ってもらうことではないか。

 

というわけか何なのか。ござさんは今年出演されるコンサートは初めて声をかけていただけたイベントが多い気がする。

【※資料:今年決まってるコンサート4か所の概観】

 

Youtube配信はいつも同じファンが聞いてくれている(と思う)。その人たちに対してはござさんは毎週放送を欠かさずやってくれていて、ほんとに感謝しかない。なかなかコンサートの現地に行けない場合、配信は生で聴けないにしてもアーカイブでずっと楽しめるからだ。

 

 

それとは違う、全く初出演のコンサート、今年の第一弾。

平安神宮桜音夜 紅しだれコンサート2023」

 

自分はこのコンサートは聴きに行けた(今年はこれで終わり)、なぜなら関西圏で東京よりは近かったから。

というわけで感想を書いていく。

 

 

開催場所は平安神宮

京都遷都1200年を記念して明治時代に創建されたらしい。

庭園を彩る紅しだれ桜が有名で、平成元年から毎年開催されてきた歴史あるコンサート。ライトアップが見られるのはこのコンサートでだけという限定演出。

日本有数の、いや世界に冠たる観光地である京都でのコンサートと夜桜見物とあって、自分が想像していたよりも現地は多数のお客さんでひしめき、また海外から来られていた方も多かった。コロナ流行前は一日3000人のお客さんでにぎわっていたらしい。

 

文化と言語の相違

その日は自分は、午前中から寺院を観光してきたけど、どこへ行ってもやはり海外からの方は多かった。その日泊まったホテルでご飯食べてても、周りは全員外国人だった。

何で日本がそんなに人気なんだろう?桜はわかるけど、寺院仏閣はそんなに人気なの?仏教ってまあまあマニアックだよね。

 

ーー以下、数年前の回想……

そこで思い出すのは、ウチの男子君がどっかにホームステイに行ったが、その時お土産として持っていくように運営団体から厳しく言いつけられていたのは、和風のものとか日本のお菓子を持っていけということだった。

お土産なら地元銘菓とか名産品を……って思いますよね。うどん県からだから和三盆と半生麺のうどんと団扇かな?って思いますよね。じゃなくて、和風のものが人気っていわれて、しかも手作りか100均で揃えろということだった。

お菓子もグミとじゃがりこが現地では人気って言われて目が点。なんで?名物のせんべいとかじゃなくていいの?ってなる。

どうやら扇子とか千代紙、日本手ぬぐい、箸は人気らしい。でもそれらは100均でいいんかい?なんのこっちゃ。

そしてお手玉とかを手作りして、あやとりとか折り紙を持ち込んで遊べとの事。それはまあ分かる。

料理も和食を作れるように練習して行けという指令。醤油も持参せよと。なるほど。

しかし自己紹介アルバムには日本の自販機は珍しいから必ず入れるように……??なんで???観光地とか、名所旧跡じゃなくて???どゆこと?意味わかんないwww

 

というふうに、そういや海外の文化と自分らの価値観にはだいぶ相違があったことを思い出した。

 

食文化は確かに京料理は和食でも代表的だし、人気かもしれない。

寺院も、枯山水は逆に現代アートみたいに受け入れられているのかもしれない。その他庭園や建築も、外国人がイメージする日本風なものが京都には多く残っているし。

白い玉石の中に銘石が所々に配置された静かな庭園を前に、縁側に腰かけていつまでも眺めてる外国人カップルをたくさん見かけたから。日本人のツアー客は足早に通り過ぎていくのに。

 

というわけでわざわざ海外から渡航され、もしくは日本中から集まられてるであろう観光客の方々が主なお客さんと思われる今回のコンサート。

メインはあくまで夜桜ライトアップの見物である。

桜はワシントンに桜並木があるように、海外では日本をイメージする花として知名度は高いようだ。しかもシダレザクラ、日本庭園を眺めながらのイベントはそういう意味で人気があったのか、ツアーの行程で来られてる方も多く見かけた。

 

 

夜の闇に映えるベニシダレザクラ、それらを眺めては感嘆の声を漏らしながら庭園を巡って歩く人々。

えもいわれぬ美しい世界。

その時ちょうど夕方から降り始めた雨が強まってきて、夜を背景に薄紅色に浮かぶ花弁はしっとりと露をまとってさらに趣深い。

昼間回った寺院で誰かが言っていた。

「雨の京都はまた格別に情緒があって良い」

なるほどと首肯せずにいられない……

 

海外から見物に来られるだけの、TVやネットを通しては体験できない雰囲気を醸し出して余りある景観。

京都はそういう魅力を備えているにせよ、コロナ流行を経て再びこういう観光地に海外とか日本中から観光客が動き出したことをありありと実感できて、その間廃業した関連業者(ホテルや飲食業など)も身近に多く見て来ただけに、自分は心のどこかで安心した。マスクはつけとくとして。

 

え?

ここまでござさんの話題が出てない?

今回のイベントは桜見物がメインでしたからね。

それらを巡る人々が傍らに音楽を耳にしながら、夜の景観を楽しむイベントだったんですね。

 

要するに、ほんとに音楽も演奏もピアノも全く関係ないところにぽーんと登場してる、入場門横のイベント告知看板。日本庭園とは縁がなさそうな演奏家たちの面々。

何が言いたいか?

開場時間の直前に周りを見渡すと、すでに行列が何百人と並んでたんですが、その中の何人がござさんファンだったか分かりませんが、普段関東というか東京からほぼ出ないござさんの演奏日に、しかも平日のど真ん中の夕方いらしてるお客様方は、決してござさんファンはそんなに割合を占めないのではないかって思ったわけです。イベントの性質上ツアー客も含まれてるから、ますますござさんのピアノを目的に聴きに来たって人は少なかったかもしれない。

ござさんは普段関西に演奏に来られないだけに、近畿地方ていうか西日本のござさんファンが万障繰り合わせて集まってこられてた説はあるとしても、それは微々たる人数だろうと推察される。根拠ないけど。

 

海外からの方とか各地から来られた観光客の方が多くて、

おそらくあんまり音楽を普段聞かない人も多くいただろうと思われる中、

雨降っててもそれを題材にその場でプログラムが組めるござさん、その生演奏が流れて来る日本庭園。

周りは満開のシダレザクラ

 

はっきり言ってこれ以上ない位のシチュエーション、ロケーションです。逆に言えばストピと違って本当に通りすがりの人は聴衆の中にはいないですが、しかし同様なものだと思われる。

何がこれ以上ないって、たぶんござさんを初めて知る人が多そうだなと思ったからです。初めてござさんのピアノ聴くのがこのコンサートだという人には、ござさんのピアノはこれ以上ないくらい素晴らしい条件で聴けるから、きっとなにか心の琴線に触れるものがあるのじゃないかなと思う。

なにしろこのコンサートは配信がなく、プログラムもなく、このロケーションで決まった時間でやってくださいねっていう、ゆる~~いお題しか提示されてない可能性が高い。そういう時のござさんの即興演奏というのは発想から選曲、アレンジまで何もかも素晴らしいからだ。

 

海外の方へも言語の違いは心配ない。

たぶん演奏へのジャッジメントは、日本人より彼らの方が素直に表現してくれるから。

演奏を理解してもらうのに言語は関係ないし、ござさんは音楽が言語だから大丈夫。

 


あとで耳にしたが、コンサート開始後つまり日没後は、正面の応天門を入ったところが、このように緑色のライトアップで彩られていた。

朱の柱を赤く照らされた大極殿と対照的だ。

 

緑色、つまりござさんのござ色。

これはこの日だけの限定演出だったという情報がある。

分かる人には分かるシークレット演出ってところでしょうか。貴重な情報ありがとうございます。

 

 

自分でもこんな思考回路になるくらいには、桜の季節の京都はどこも海外からの人でいっぱいだった。神社仏閣、交通機関、コンビニやスタバ、ホテル……、JR京都駅なんか外国人がほぼ大部分を占めてたんじゃないか?って思うくらい。

さて、平安神宮のコンサートは、そんな割合ではなくとも多様な国籍の人たちが観衆として集うイベント。

そこにかつてYoutube配信で何度かチャット欄に英語が見えたとき、日本語のベタ発音でカタコトな返事をしていたござさんが挑む!!果たしてどうなるんだ!?

………分かってます主な挨拶はピアノが語るから大丈夫なんですね。(ほんとかいな)

 

 

百聞は一見に如かず

どうなるんだとかいう心配は無用だった。

 

初めてのアウェイな地、京都。そういう条件はござさんにはハンデではなかったみたいだ。

自由に即興演奏するござさんは未だかつてないくらい流暢だったから。

 

ござさんはその日、その場所で、どんな人がピアノ聴いてくれてるのかな?という事実をものすごく繊細に捉えて考えてくれる。そして、ござさんが思う曲順、そしてぴったりのコード進行?とアレンジをもとに、最もその楽曲が活かされるようなしつらえに仕立てて聴いてる人に届けてくれるのだ。

音楽にいつも寄り添ってる感じがする。音楽を音楽としてそのまま捉えてる。

ござさんのピアノ聴いてると、すごい演奏するから聴いてーっていう意図は感じられない。無理に歪曲させて手なずけるのではなく、その楽曲はどうしたらもっと本質を引き出せるか?に主眼を置いてるような。

でもそのアレンジは自由だから各ジャンル(特にクラシック界)の専門家には、楽曲をないがしろにしてると蔑まれるかもしれない。しかし実際に聴いててその場に一番しっくりくる自然なかたちで音楽を提供してくれるのはござさんをおいてほかに居ないと自分は思う。

 

場所は京都。

京都は平安時代から1000年続いた都の地。そこには日本人が長年培った独特のおもてなしの文化が息づいている。

料亭にしても旅館にしても、ドライにその分野のサービスだけを提供するのではなく、利用するお客さんがどのようにしたら快適に過ごしていただけるのかに気を配り、言葉に出てくるところ以外の声も察して、さりげなく細やかな気配りをする。

それらの施設に設けられた生け花や調度品、料理、そして従業員の接客、全てはお客さんの望むように臨機応変かつ柔軟に対応を変えながら提供される。

 

ビジネスホテルに見られるような最低限かつ効率的なサービスは音楽でいう所のサブスクだ。低コスト、かつ便利だからだ。

それに対しござさんが音楽を提供しようとしてる姿勢は常に、(生配信でもできるだけ)提供する音楽をお客さんによって、またその時と場合によって柔軟にサービス内容を変えるという形で、最適な方法で提供してくれる。そのようすは料亭とかにみられる、包括的にお客さんをもてなす姿勢と重なるものがあると思う。

ござさんの音楽を聴いてるとそういうホスピタリティが感じられるのだ。

つまり最上級のサービスがひとつづつの音、それらによって作り出される音楽に込められている。

そこまで手が込んだ細やかなサービスには相当の対価を払ってしかるべきだと思う。ござさんはいつもその場にいる人に最高の形で求められる音楽を提供しよう、と寄り添ってくれているが、聴いてるほうも、有料コンサートに来て良かったなってしみじみ思わせる演奏なのだ。ホールだから、とか野外だから、って関係ない。あの値段で聴いてていいのか?ってなる演奏。

ただ、ござさんは音楽に対価が発生するとは決して考えていないだろうけど。

ござさんの考える、「お客さんに対価を払ってもらうに値する音楽」とは、すなわちその音楽を聴いて観客が喜んでくれたかどうか、その一点に絞られている、と思う。

 

聴いてて観客が笑顔になってくれた、提供した音楽に共感してくれた。

そう実感したときが、ござさんがもっとも労われたと感じる瞬間なのだろう。

 

そしてござさんのアレンジはその場限り、もう二度と同じ演奏は聴けない。そういう意味でも生で聴く即興演奏は、聴衆にとってはかけがえのない経験であり贅沢な体験だ。

個人的に言えば自分は今回コンサートに行ったが、向こう一年~数年は行く機会は無い予定。という風にござさんのピアノは、人生のいろんな場面でどこかで聴けたらいい贅沢品みたいな存在なのかも、と思う。

それを目標に楽しみに過ごすというか。

ござさんが一期一会のホスピタリティを込めて演奏してくれるなら、そういう出会いを楽しみに、いつか聴ける演奏を夢想して過ごすような特別な存在なんだな、と実際に即興演奏を聴いてみて思った。

 

つまり、実際にその場で生演奏を体験できなくても、即興演奏そのものは、なんと毎週配信で聴けるという贅沢な環境にあるということを思い出して、そういう意味では配信が定期で実施されれば自分はこの一年楽しく過ごせるかもな?と思う。

ござさんの発想は、自由に羽ばたく。

そして生配信だとさらにいろんな場所でいろんな立場の人が聴いてるのだが、彼らを慮って絶対に偏った内容の配信はされない。多くを語られないけど、皆さんが楽しんでくれると嬉しいですっていう声にならない声が聞こえる気がする。

 

 

観る人すべてを別世界へいざなう情景

自分にとってこの日のコンサートは過酷だった。どういう意味かと言えば。

それは、絶対的な影響力を誇る雨男として名を馳せる菊池さんが翌日出演の予定で、いつも通り絶好調だったようで、ござさんの出演時間になると現地では順調に雨が降ってきたからだ。

年間の晴天日数の長さはが全国でも屈指のうどん県に住む自分は、一滴でも雨が降ると髪から濡れてしまって風邪ひくじゃんという理由で、雨降るとテンション下がる。

しかし懸念されていた庭園の足元はそこまでぬかるんだりしてなくて、すっかり陽が落ちた中に浮かび上がるシダレザクラを楽しみながら、自分ら観光客は係員の誘導に従って神苑を散策していった。通常は夕方で閉鎖されるため、神苑に夜入れるのも、ライトアップがあるのもこの時期だけらしい。

 

個人的には、夜桜見物も初めて、そもそも平安神宮も初めてで京都観光は20年ぶり。だから目にするものが何もかも新鮮だったとして、そういう先入観を差し引いても夜桜の眺めは圧巻だったと申し上げておこう。

 

明治時代の創設だから樹齢は100年を超えるであろうシダレザクラが闇夜に映える。コンサートのある東側以外にも、神宮の正殿である大極殿の周囲には広大な神苑が広がっていて、様々な品種の枝垂れ桜が紅色や薄桃色の花をこぼれんばかりにつけている。

八重に重なった芳醇な花弁は、流れる落ちようとする枝に乗って、さながら花筏のようだ。

神宮敷地沿いの運河沿いに見えた柳の木が、水面に落ちようとする柔らかな枝に新緑の繊細な葉を揺らしていたように……

ここ神苑では桜が華奢な枝を次々と流れ落ちていくのだ。

様々な趣向でライトアップが施されたシダレザクラを巡っていくうちに、係員の方は視界に入れども、そんな幻想的な世界に連れていかれるような錯覚を覚える。

 

おそらく管理の都合上、夜桜ライトアップはこの有料イベント期間中だけ、それならチケット購入して毎年鑑賞に訪れよう、そういうお客さんが多いのもうなずける。このコンサートは夜桜見物できる音楽イベントとして、ディナーとかと共にツアー行程に組まれているようだったが、そのツアーの締めを飾る目的地としては役割を十分に果たして余りある存在なのでは?この八重に咲いたシダレザクラのライトアップ、ぜひまた来たいと思わせるものがある。平成の初めから毎年開催されている人気イベントなのも納得である。

夜桜のライトアップは今の時期だけだが、平安神宮の広大な神苑はほかにも季節によって様々な色彩を見せるようだ。またコンサートが行われていた貴賓殿(?)である尚美館や、ほかにも渡殿にあたる泰平閣は京都御所から移築されたものであり、風格あるたたずまいが庭園に重厚な趣を添えている。

昼間来ていれば庭園はまた別の顔を見せていたであろう。

 

平安神宮公式サイト:
[公式]Heian Jingu Shrine 平安神宮 | 京都 平安神宮の参拝情報と神前結婚式・七五三など各種ご祈祷、名勝神苑のご紹介

※公式サイト内の、神苑のページ:
[公式]平安神宮 | 明治を代表する日本庭園「平安神宮神苑」

 

泰平閣


(画像引用(一部修正):平安神宮 - Wikipedia )

 

この画像のとおり、神苑は栖鳳池を囲むように広がっている。そしてこの渡殿と対角線上に、コンサートが行われていた貴賓館はあった。

泰平閣同様に、貴賓館は御所から移築された建築であり、吹き放しの構造と軒に見える御簾、檜皮葺の屋根がかつての貴族そして天皇家の権勢の面影をしのばせる。

池に浮かぶように見える貴賓館……

 

眺めていると幻想が見えてくるようだ。ーーー周囲には船が浮かべられて、公家の催す管弦の宴が繰り広げられるーーー雅楽の妙なる響きが広がる中、玉砂利を踏んで舞を踊る殿上人……

 

コンサートの初日が東儀秀樹さんだったのは、むべなるかなである。

ニュース映像:
紅しだれコンサート2023 京都・平安神宮「桜音夜」東儀秀樹・東儀典親(2023年4月5日 京都市左京区) - YouTube

 

当日は雨脚も本格的になってきていた。いったん神宮正面、ライトアップされた大極殿前の広場を抜けて東側へと、傘を差しながらの桜見物行列は続く。

神苑に配置された栖鳳池と桜、そして貴賓館。池泉回遊式庭園として設計された神苑は、一歩一景ともいうべき景観が楽しめる。桜が様々な品種、様々なライトアップによる演出がなされていたように、貴賓館の古風な屋根と時代を感じさせる漆喰の白い壁もまた池の反対側から(?)のプロジェクションマッピングのようなライティングで、めくるめく彩りを添えられていた。

 

さて桜の素晴らしさもさることながら、コンサートも楽しみたいと考える自分は、神苑を巡りながらも貴賓館を眺められる場所を考えながら歩いていた。しかし神苑の遊歩道は原則立ち止まってはいけない。すれ違えない道幅、小さな石造りの橋まであったりする。順路に従って退出し、再び入場希望する際には入り口から再度入るように、つまり最初のルートからたどるようにとの規定があった。とすると順調に神苑を巡ってる自分の位置だと、コンサート始まる前に順路を出てしまう公算が大きい。

どうするんですか(汗)

神苑から入りなおしてると、その行程から言って再び貴賓館付近に戻るころにはコンサートに絶対間に合わない。

そんなこんなで一人でパニックに陥っていたところ、行く先に何やら建物が見えた。そこは池越しに貴賓館が眺められ、しかも頑丈な造りで屋根のある場所。そして大勢の人が屋根の下に息を詰めてコンサートの開始時間を待っているようだ。

その建物が上記写真の渡殿、つまり泰平閣だった。

みるみるうちに渡殿の上は人でいっぱいになっていくが不思議と木造の建築物はきしみもしない。コンクリートとかで基礎を補強してたのだろうか。

え???

いいんですか?

ここで留まってござさんのピアノ聴いてても、いいんですかね???大丈夫ですか??摘発されたり、しないかな…

自分と連れは、他のおそらくござさんファンと思われる面々と共にそこで雨を凌ぎながらコンサートを聴くことにした。公式さんから"ござさんファンは、立ち止まらないという規定を遵守できてない"と指摘されないか?ござさん側に公式さんからファンへの周知徹底が不十分ってクレーム入れられたりしないか??と一抹の不安に怯えながら…

 

コンサートに先立って、声の案内人の方がナレーションを語る。専任のナレーションとして招待されてるんですね、そこにもこのイベントが長年親しまれてきたものであることが感じられる。コロナ流行の間は中断されていたということだから、毎年訪れていたようなお客さんは感慨もひとしおなことだろう。

そして貴賓館に照明が灯り、折り目正しくお辞儀しながらアナウンスと共に登場するござさん。照明が眩しくてお召しになってる衣装は何色なのか見えないが、そこは問題ではない。

 

第一部

春の息吹

上記の"百聞は一見に如かず"の辺りで述べたとおり、ござさんは演奏自体がどうだったかという主観的論点より、観客が音楽を聴いてどう感じたかという客観的なところに足場を求めていると思う。

つまり。主たる観客は夜桜を楽しみに訪れた人や観光客の方々、音楽は庭園巡りのBGMとして流され、気候はまだ肌寒い桜のころで日暮れ時から雨脚が強まり……

そういう状況において、何が求められているのかを勘案してお客様にお出しする。

マニュアル通りというよりは、観客の立場になってその場で考えられている節がある。 

 

そういう発想は介護職の現場で自然に身につけられたのかもしれない。

 

コンサートの冒頭で演奏された3曲は一応世の中のセオリーに則ったものだった。

京都のCMでおなじみのMy Favorite Things。

歌詞が春をつかさどっているパプリカ、子供にも人気の曲。

そして季節柄、ユーミンの卒業写真も演奏されていた。

 

しかしそれらはござさんの選んだ主題としてのモチーフであり、演奏は軽やかなワルツ風(?)に仕上げられていた。ワルツ風だったかどうかは有識者の方じゃないとほんとのところは分からないけど。しかしスタンダードJAZZだったりPOPSだったりする曲を、統一したアレンジでまとめてくるあたりがござさんである。

 

暖かい南風は頬にやさしく触れる。重いコートも脱ぎ棄てて、それぞれが新しい環境で動き始める季節、春。冬枯れの景色から、自然の世界はみるみるうちに華やかな色彩にいろどられる。一斉に芽吹いた若葉の新緑がまぶしい。色とりどりの花が咲き競い、生き物は眠りから醒めて堅い地中から動き始める季節。

そしてコンサートの背景には、満開のシダレザクラが命を惜しむかのように今を盛りと咲きほこる。薄桃色から紅色まで様々な色に染まる八重咲の花弁は、高貴にして可憐。満開を少し過ぎたころの桜が雨の中の舗道に散り敷いていた様子もまた趣がある。

 

散ればこそ いとど桜は めでたけれ 浮き世になにか 久しかるべき

【現代語訳:散るからこそ桜は素晴らしいのだ。この憂いの多い世の中に何が長く変わらずにあるだろうか、そんなものはありはしないのだ。】

(よみ人しらず;伊勢物語より)

 

スタンダードJAZZも軽快に、本来の熱い情熱と牙を抜かれたような、肩の力を抜いた趣向。パプリカも原曲の元気いっぱい子供向けなリズムは抑制されて主旋律が優雅に舞い踊る。卒業写真はより情緒豊かに、聴く人の人生を振り返って噛み締めるような含蓄ある和音が丁寧に奏でられる。

 

空は雨模様だったが、この生命力あふれる季節を謳歌するかのような控えめながら華やかなアレンジ。

 

 

追悼

ござさんはここで短くMCを挟み、来場されたお客さんへ挨拶と、曲紹介を述べられた。次の演奏は坂本龍一氏への追悼の意をこめて、と説明されていたような……

演奏曲は映画音楽のラストエンペラー、そしてenergy flowも名曲だ。

ござさんは黙して語らない。余計な発言やそぶりよりも、演奏を聴いてもらって思う所を汲んでもらいたいというところだろう。

 

戦場のメリークリスマス。ござさんのアレンジで坂本氏の曲といえば筆頭にこの曲が浮かぶ。生配信でもたびたび取り上げられ、自分の中では伝説の名演も数多く一つに絞ることなどできない思い出の曲だ。

youtube動画にも、いりすさんとの2台ピアノアレンジが上がっている。まだニコニコ動画でアンダーバーさん名義で活動されていたころのものである事からも、ござさんが若いころから坂本氏の音楽に心酔し崇敬の念を抱いてきたことがわかる。

【坂本龍一】戦メリをピアノ2台で弾いてみた。【Merry Christmas, Mr.Lawrence】 - YouTube

今回はその曲を避けられていて、それは特別な存在だからござさんの胸の内にしまっておきたい思い出なのかもしれないな、という説が自分の脳裏をちらりと掠めた。

 

ラストエンペラーは、海外の物語だが同様に王朝を舞台としていることから選ばれたのかもしれない。

ござさんの無言の思いを乗せてなのか、この2つの坂本氏の追悼曲はほぼ原曲に近いアレンジで演奏されていた。重厚な歴史を感じさせる和音が荘厳に響く。国は違えど、まさにいにしえの宮廷を舞台に繰り広げられる王朝絵巻さながらである。

 

邯鄲の夢ーー

 人の栄枯盛衰は所詮夢に過ぎないと、その儚さを表す。

邯鄲の夢(かんたんのゆめ)とは? 意味や使い方 - コトバンク )

 

 

今の気持ち

上記の曲が、坂本氏の訃報に対する公的な意思表明とするなら、その後に演奏された曲は、さしずめござさんの私的な感情を吐露したものだったのかもしれない。

 

ござさんがMCで

「では今の気持ちを演奏で表そうかと……『悲しくてやり切れない』ていう曲を、これはザ・フォーク・クルセダーズの曲なので古いのですが、あっ最近映画の主題歌にも使われたんですかね、では演奏をお楽しみください」

とかナチュラルに発言するものだから、池を取り囲んで耳を傾けてる観衆には一瞬

「え??悲しいのござさん??」

とかいう戸惑いが奔った。だって初めて呼ばれた晴れの席、平安神宮の貴賓館という文字通りの檜舞台で格調高い演奏を楽しんでる身としては、これ以上ないくらいおめでたい場で悲しいってどういうことーっ!??って一瞬変な汗が出たんですよ。

でも自分は気を取り直してこれは前の追悼曲とつながってるんだろうって勝手に解釈することにした。そのザ・フォーク・クルセダーズって歌手とかこの曲のことはさっぱりシリマセンケド。

たぶんこれも原曲通りのアレンジだった(後で確認した所では)と思う。昭和ののどかな旋律にそこはかとなく哀愁が漂う演奏。

 

ござさんは何も語らないから、その気持ちは自分は演奏で慮ることにする。

 

 

通称:アンコール曲

ござさんが一部の最後に用意されていたのはいつものダニーボーイであった。つまり自分的にはアンコール曲だ。この曲が来れば今日の日はお別れ、コンサートにおける蛍の光みたいなものだと思えばいいだろう。

もくしはコンサートの曲目はどれも格調高く、調子を外せないものばかりだったから、いつもの自由な即興アレンジができる曲を最後に持ってきたいのかもしれない。単に想像に過ぎないけど。というかこの感想自体が、素人の自分が思う想像の世界だ。

上記の昭和の曲と同様、ダニーボーイは伝承の民謡が発祥であり、そういうジャンルは曲の音楽的構成がシンプルでわかりやすいため、コードやリズムをアレンジしやすいらしい。

その場での即興演奏が、楽譜よむよりも最も調子が上がるござさんならではの選曲だ。

 

そしてござさんは音楽でおもてなしを語るから、この郷愁をさそう曲で、帰る人にお見送りの言葉かけとしたのだろう。

「遠路はるばるお越しくださいまして、ありがとうございました。ご自宅までがコンサートですから、くれぐれもお帰りの際はお気をつけて………」

と、ござさんの声がその中に聞こえるようである。

なぜなら、ツアーの行程で来られている方もおり、また上記の通り遠方から日帰りの方には第一部で帰られる方もいらっしゃるからだ。それらの、足早に時計を確認し、公共交通機関の時間を気にしながら去っていく人々への、お見送りの言葉。

どこか懐かしいダニーボーイの旋律は、聴く人全てにそっとささやかなお土産を持たせてくれたかのように、心の中であたたかくいつまでも響く。

 

 

 

桜と音楽が映し出すもの

休憩時間は15分ほど取られていた。思い思いに観賞場所を探して庭園を散策したり、用事を済ましたり……自分は周りのござさんファンと共にいったん前半で退場しなければいけないのか議論しながら、観客入れ替え制ではなかったことを確認し、再び渡殿の泰平閣で前半の演奏の素晴らしさについて盛り上がりつつ第二部の開始を待った。

 

満開のシダレザクラが照明に映し出されるさまを、漆黒の湖水越しに眺めながら………

 

桜花 また立ちならぶ 物ぞなき 誰まがへけん 峰のしら雲(藤原定家

【現代語訳:桜の花の美しさには、他に匹敵するものなどない。誰が見間違えたのだろう、峰の白雲と。】

 

 願わくば 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃(西行

【現代語訳:願うことならば(旧暦で)2月15日の満月の頃に満開の桜の下で死にたいものだ】

 

桜より美しいものはない。

願わくば、その何より美しい桜の下で死にたい。

 

まさに眺望絶佳。

神苑を取り囲む見事な桜を表現するなら……"この光景にまみえることができればそれで息絶えても構わない"そのくらいの絶世の眺めだったのだ。

(ただ和歌の意味は、死に場所には花祭りの頃、満月の桜の下を選びたいという事だから少々の齟齬はあるとしても)

 



まるでこの世のものとも思われない、桜と楼閣が織りなす絶景が湖水に映るさま。

水面を遠く隔てて浮かぶ貴賓館は夢のような彩りに照らされて、闇に浮かぶシダレザクラと共に幽玄な姿を現出する。

そこに流れるたおやかなピアノの調べ。

 

 

目に映る光景は、海の彼方にあるという常世の国を彷彿とさせる。

(※日本でいう所の常世の国、冠島と沓島。京都は丹後半島伊根町からの眺め)

 

常世の国は、沖縄など南西諸島では、豊穣と生命の源の地であるニライカナイと称される。生命はその彼方から寄り来たり、また死者はその地へ還っていく。海からもたらされるものは全て、彼の地から遣わされた神の依り代。

古代中国でいうところの、海の向こうの蓬莱山。

 

資料コーナー:常世の国 - Wikipedia  
ニライカナイ(にらいかない)とは? 意味や使い方 - コトバンク
蓬萊山 - Wikipedia

 

さらに想像は広がるーーー
神様の依り代は庭園の湖水を遥かに渡り来て、妙なるピアノの響きをもたらし、観る者を海の中の神仙の国へといざなう。

そこでは海の神ワタツミから非時香果(ときじくのかこのみ)ーーー橘を下賜される。橘、そう平安神宮大極殿を護る右近の橘だ………

 

(画像引用:平安神宮 - Wikipedia )

 

 

 

・・・・・・ハッッ(゚Д゚≡゚Д゚)ここは??

(現実に還ってきた)

 

 

第二部

時雨の夜

夕方から降り始めた雨は、その勢いを強めたり、いったんやんだりを繰り返しながらしとしとと降り続いていた。貴賓館と庭園を隔てる栖鳳池には絶え間なく雨が落ちて水紋が広がる。シダレザクラの桃色の花弁はしっとりと雨粒に濡れて艶めき、神苑の木々の葉はよりいっそう翠色が濃い。

その景色を背景に、第二部の冒頭でござさんはおもむろにショパンの28の前奏曲集 第15番 、通称「雨だれ」を弾き始めた。

今日はお足元がお悪い中、ようこそおいでくださいましたとでもいうように……この曲は、第2部におけるござさんからのウエルカムボードだったのだろう。そこに感じられるささやかなホスピタリティ。

この第二部はクラシックコーナーだったのか?続いて何かの第二楽章が演奏されていた……たぶん、ベートーベンのピアノソナタ悲愴の第二楽章かなあ、素人なのでプログラムがないとわからない。有識者の方は独自に解説なさってください。もしそれだとしたら、この曲はソロコンサートではJAZZアレンジという実験的な演奏がなされていたが、今回はたぶん原曲の雰囲気を尊重している。このような初見さんが多い場ではござさんはあまり選曲では冒険しない。しかしちゃっかりと和音編成とか色々お洒落にこっそり改変しているのはいつものことである。

それから亡き王女のためのパヴァーヌも演奏され、第二部の導入部は優雅なクラシックで幕を開けた。

クラシック曲というと解釈にもセオリーがあり、その中でどのように個性を活かすかが論点のようだが、ござさんは逆の方向からアプローチする。すなわちそのとき必要とされている音楽、奏法、アレンジは何か、という観点からレパートリーを脳内検索されて一番目的に合致する曲をぴったりの方法でお客様に提供する……

ござさんの演奏を聴いていると、クラシック曲という長い歴史を有するものにも新しい目線での新しい楽しみ方があるんだなあと自分は毎回目から鱗が落ちる思いである。

 

 

ジブリ

第一部にパプリカが取り上げられていたように、このジブリ枠は子供さんにもわかるようにっていう選曲か、全年代を対象にされてるのだなって思いきや。

風の通り道を弾きますっていうのでおなじみのレパートリー、大好きって思いつつ。いや?この曲も、生配信で何度も弾いてくれて、とてもとなりのトトロの映画の一説だとは思えない劇的アレンジが数多いことで有名な(当社比)、名曲中の名曲じゃないかー!と俄然自分のテンションは天井知らずに上がった。そう、原作中ではかわいいススワタリが夜空をキャッキャ言いながら渡っていくコミカルな場面のBGMに過ぎないのだけど。

 

今回のコンサート、どの曲も荘厳にして重厚なアレンジ、平安の都からの歴史を思わせる悠久の時の流れが和音に乗せられている。

風の通り道から続いてアシタカ瘍記も演奏されていて、ジブリ特有のオーケストラ編成の楽曲がもつ壮大な展開が胸を打つ。

黙ってござさんの奏でる時の流れに身を委ねよう………

 

 

 

ホルスト組曲「惑星」から木星、中間部主旋律アレンジ

自分の中では、振り返ってみるとこの曲は第一部、第二部を通してコンサートのメイン曲だった。

この木星の中間部旋律というのはイギリスでいうところの国歌に準じるものらしく、威風堂々と合わせて広く親しまれている曲だ。今回は海外からのお客さんも多いことを主眼にクラシックで、海外でも知られている曲を選ばれた感がある。

そしてござさんのレパートリーでも生配信でよく弾いてくれている曲、アレンジが手になじんでいるものだからという理由もあるだろう。

この曲も原曲はオーケストラ。ござさんは一人でピアノを弾いているのに、神苑には大編成の楽団が奏でているかのような重厚な和音が鳴り渡る。

まさに圧倒的な迫力。

そして随所にちりばめられた、桜の花弁が雨に散るような華やかなアルペジオ

コンサートの最終盤を飾るに相応しい縦横無尽にして正統派の演奏。

 

 

 

家路とダニーボーイ

この曲もござさんからのお別れの言葉代わり、「お足元のお悪い中、皆様ありがとうございました。夜も更けてまいりましたが、お帰りの際はお気をつけて……」というござさんの心遣いが見て取れる。

家路はドヴォルザーク交響曲であり、アメリカでの曲にしてはチェコ風味満載だが民謡ではない。しかしダニーボーイと同様、主旋律は平易にして郷愁を誘う。

原曲ではオーボエの仲間の中音域を担当するイングリッシュホルンという木管楽器が、朗々と素朴に歌い上げるこの主旋律。日本では家路という愛称で、歌詞もつけられて親しまれている。

このなぜか懐かしさをたたえる中にもどこか哀しさをたたえる旋律、それをベースにござさんは手足のように自在に操る。

そしていつしか演奏はダニーボーイに切り替わっていて、お客さん方はみなさん驚かれたかもしれないが、自分らファンはこっそりと「あら混ざってるね」「そっか蛍の代わりだよね」「また家路に戻ってるんだけど?wwwww」などとこっそりと言い合ってはほくそ笑む。こっそりと。

 

そして自分は、このコンサートに来たらやりたかったことを無事やりとげた。

正確には、コンサート途中ですでにただ一人果敢に実施されていた人がいて、自分はそれに驚きつつも、もうそういうことが時期的に許されるようになったんだなーと気づき、自分も実行に移すことに決めたのだ。

 

自分がござさんを始めて知ったのは3年前のyoutube動画だった。だから直接感想は伝えられなかった。

第一回ねぴらぼの時はござさんは誰もいないZEPPの客席に向かって「アリーナ-ー!」と叫んで手を振っていた。しかし客席からの返答は、唯一リスさん(の着ぐるみを来たいりすさん)が「キャ~~ござさ~ん!」と手を振るばかり。

そして晴れて有観客でソロコンサートが開催されるも、手紙を届ける事はできても、ホールでは観客は声出し禁止で拍手でしか感動の気持ちを伝えることができなかった。

 

コロナ流行の時期はそういう制限があった。

しかし今回誰かが先行して、曲の合間で

「ござさーーーーん!!!」

と叫んでた。

ええっ何それずるい。自分も叫ぶ!

 

ダニーボーイの最後の音が余韻に溶けて静寂が訪れるやいなや、

「bravo!!!!」

と叫んだのだった。泰平閣に並んだファンの方々の後ろの方から、しかしバレーのバックアタックみたいに渾身の力を込めて思いをぶつけたのだ。(マスクしてたから叫んでも大丈夫……)

この言葉を叫びたいのはただひとりござさんにだけ。

これで自分は思い残すことももうないから死んでも悔いはありません。

 

 

 

衣装への問題提起

ここでこのござさんのツイート写真見て、あっふーん、いいじゃん?って思う人はここでお引き返しくださいませ。ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

 

さて本題に入ろう。

あのですね、ござさんはピアノがネイティブな第一言語だからいいかもしれませんが、

_人人人人人人人人人人人人人人人_

>ビジュアルちゃんとしててほしい<
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄

と思う訳ですよ。

 

この衣装がちゃんとしてないって意味じゃありませんけど。

シャツはござの日でも着用されてたブランドで、いつもちょいひねってるデザインで素敵です。

だからそこじゃなくて。

あの闇に浮かぶ楼閣みたいなとこで照明が当たる中演奏するなら、暗い庭園の観客から見ればござさんは逆光のなかに立ってるから、その"春っぽい"ジャケットは単に白飛びしてカラーが何だったか見えないわけです。春だから白ジャケットなのかと思ったくらいです。ステージ衣装として暗い客席=庭園からでもよく分かるというかはっきり見せるなら、はっきりした色のスーツでシャツと組み合わせとけば、よっぽど映えたのにって思います。靴下の色は庭園からじゃ見えなかったです。

ほら、日本遺産コンサートで着用されてた青いスーツとか?

 

じゃなくて、そもそも。 

せっかく衣装を整え、こういうステキなロケーション、この屋内でも周囲の神苑で桜をバックにしても、昼でも夜でもいくらでも素敵な写真は撮れたんじゃないんですかね?

コンサート後のお知らせとして現地でのピアノと共に撮影したところを上げてくださるのは記念としてファンとしても大変うれしいんですが。

じゃなくて、リアルタイムじゃなく宣材写真つまり所謂アー写ぽいのもついでに撮るには絶好のロケーションだったのに。このピアノバックにした写真も、ピアノと建築のしつらえは素晴らしいだけに、もっとこう光の当たり方によっては素敵な写りになった(かもしれない)のにもったいないって思う。

ポーズ取るなり、演奏してるとこを写すなり、なんでも、どうとでもできたと思う。

ござさんがそこを重視してないのは重々承知ですけど、じゃあなおさら、ござさんが所属してる組織の方々にはなんか少しでも意識してほしいなあ!って思う所です。

つまりプロのカメラマンさんとスタイリストさんを雇っていただければ解決された問題って気がします。

 

ござさんには初めての京都で素晴らしいコンサート、感動の演奏を聴けて、ファンがなんか口を挟むなんて贅沢以外の何物でもないし、余計愚痴が増えてるじゃないかっていうツッコミは甘んじて受けますけど。

 

それにしたって、最初のござの日に向けて(おそらく東京の旧古河邸で写した)アー写がいつまでたっても更新されない。

しかし、飽きたとかそういう事言いたいんじゃなくて、もっとかっこいい写真あれば、そこからなんとなく、新たにピアノ聞いてくれる人も増えるかもしれないのにってお節介おばさんはやきもきと気を揉むわけです。

よく考えたらビジュアルから入っても、ござさんの売りはそこじゃないから外見は所詮関係ないかもしれませんが、ピアノ界隈以外の人に訴求するのには、肩書と外見は興味を持ってもらうきっかけとしては重要だと思う。そこからずっと聴いてもらうためには演奏内容が関わってくるから別として、やっぱ入り口に立ってもらうきっかけとしては外見は大事。

 

重箱の隅を楊枝でつつくみたいなことばっか言ってますけど、まあ自分の部屋の最後の方でブツブツ言ってるだけだから、そっとしといてください……

 

 

教訓ーー肌は全身露出をできるだけ抑えるべし

平安神宮神苑は、池泉回遊式の日本庭園です。つまり中心に据えられた池の周囲に遊歩道や渡殿が配置され、様々な灌木や花(今回は桜)を楽しみながら散策するっていう設計がされてます。

つまり?

コンサートを鑑賞しながら、遊歩道を行くわけですが、夜にそういったロケーション、しかも灯りがついててそばには水辺がある……

つまり虫天国だったわけです。(たぶん)

自分は百年に一回しか着ないかもしれないワンピースにスニーカー、短いソックスというまるで自殺行為かっていう格好で出かけたので、まんまと虫の餌食になったということで、こういうところにお出かけになる皆様にはぜひ、女性はパンツスタイル一択です。そしてしっかりした厚手のソックスとちゃんとしたスニーカー、できれば防虫スプレーを肌が露出してるところに吹きかけてから臨むとbetterです。

 

超大きい虫だったのか、毒性がすごかったのか、手の平を広げた四方つまり10センチ角くらいに足が腫れてきて歩けないくらい痛かったので、そんなのにつかまらないように、もし来年もござさんがこのコンサートへご招待されるのであれば、皆様お気をつけくださいませ……