ピアノは毎日練習しないと上達しないし、少しでも練習の間が空くとたちまち習熟したことは無に帰すも同然になる。
それは楽器全般にいえることだが。
だから、自分は楽器が演奏できる人を尊敬する。
いまどきシンセサイザーに代表される電子楽器が隆盛を極める時代、楽器演奏の習熟とは単なる技術だけには終始しないのだが、でもそういったツールを使いこなす土台としては基本的に楽器そのものを演奏できることが前提といっていいだろう。
こつこつ目に見えないものを積み上げるように継続できるひとだけが手に入れられる、また到達できる境地。
そこから見える景色は努力を怠らなかった人だけが味わうことのできる、何物にも代えがたい、素晴らしい眺めに違いない。
そういった不断の努力だけが形作る音によって自由自在に表現できる、
それこそがまさに音楽家の醍醐味であり悦楽の時なのではないだろうか。
また、音楽を演奏するという事はそういった鍛錬に裏付けられた技術が反映されるだけではなく、演奏者から滲み出るというか燃え上がる情熱、見えない炎が音となり形になる自然現象。とでもいおうか……
奏者の感性が音という形代に拠って発露する。
それが、音楽であり楽器で演奏するということだ。
その音の表現に上も下も横もない。
あるのは、ただ聴き手による好みであろう。
それは人間が聴くところであるから好みは千差万別、聴く人の数だけ好きな音楽表現は違う。
でもただ一つ言えるのは、どの演奏、どの音楽にもそれぞれの魅力があり、相対的に比べるべきものでは決してないということだ。
音楽はそこにただ存在するだけで最高の芸術表現なのだ。
それらをどう捉えるか?
聴く人の人間性がそこに反映されるのだろう。
自分は個人的にござさんのピアノに心酔するところがあって、だからこの部屋でござさんのピアノについて語ってるということだ。
でも音を奏でる人の数だけ、音楽が存在し、
また音楽を鑑賞する人の数だけ音楽の解釈は存在する。
それらの概念は決して一束にまとめることはできないし、また画一的に語ることもできないだろう。こういった多様性が演奏シーンを極彩色にまばゆくいろどるからこそ、音楽は一生を捧げるに足る芸術たりえるのだろう。