ござさんの魅力を語る部屋

ピアニストござさんについて、熱く語ります

菊池亮太さんとござさんの2台ピアノ ーSTAND UP! CLASSIC FESTIVAL’23 ONLINE よりー

 

2023年の7月から8月、ござさんと菊池さんは2台ピアノセッションという形で計4公演という過密スケジュールをこなされていた。離脱することもなく。まずはそこ、無事完走されてお疲れ様といいたい。……おっと菊池さんは8月には海外公演、この後秋にもリサイタルとか公演があるはずで、全く一息ついてる状態ではないと思いますが。引き続きお体にだけはお気をつけて……

 

目次:クリックで各項目へ飛べます

 

 

もう一度書くが7月にこのペアの2台ピアノで3公演(そのうちフジロックフェスは電子ピアノでの演奏)。今日8/27は、STAND UP! CLASSIC FESTIVAL’23 ONLINE の出演者として、これでこの夏4公演め。

 

このセッション形態としてはこれで一区切り。ではお二人の表情をおうかがいしてみよう。

菊池さん、いかがでしたか?

菊池さんはやりきったというよりは、まだまだ遊び足りないっていう茶目っ気あふれたポーズとなっております。この二人のことだからこのセッション、時間制限なければ永遠に弾いていられそうですし。

 

ではござさんはどうだったのでしょう。

いかにも元気をもらえそうな蛍光イエローの扉を背に、ゆったりと構えて写真に納まるござさん。満足そうな笑みをたたえて、穏やかな目線をカメラに向ける。

自分としては、ござさんの公演後のツイートに、きっちり正面から映っている画像が載せられたことがまず事件だ。カメラの方、レンズを通してファンの方向へ意志を持った視線を向けてくれるようになった。

穏やかながらも芯のある視線が、演奏に手ごたえがあったことを無言のうちに物語る。

 

2人で踏んできたこの夏のいくつもの舞台、それらからお互いに得るものは大きかった、とでもいうかのように。

 

 

STAND UP! CLASSIC FESTIVAL’23 ONLINE とは(愛称スタクラ)

このクラシックフェスは去年2022年11月には池袋西口東京芸術劇場で行われている。それ以前にも色んな編成でクラシックフェス形式でイベントを開かれていたようだ。

今回は夏フェスと銘打って野外フェスを予定されていたが、気象条件を鑑みて屋内Studioでの演奏、公演は配信のみの視聴に切り替えられている。

 

しかし夏フェスでも他地域でのフェスは屋外で実施されたものも多かったが?

このコンサートはクラシックフェスであり実際に楽器で演奏する曲ばかり。ロックフェスで使用される電子楽器とは事情が違う。

観客の安全確保問題も勿論あるけど、

・奏者の健康問題

・楽器の保守的観点

という明らかなリスク要因からも、屋外での公演には無理があっただろう。

 

戦友ーー過去記事より引用

ござさんと菊池さんの演奏を紐解けば、当初はストピでの演奏だったので連弾だったことが多いですが、youtubeに上げられている動画だけでも数多く残っている。自分が菊池さんを知ったのもそういう連弾動画だったし、例を挙げれば枚挙に暇がないので省略するとして。

(※初めての連弾動画だけ貼っておく)

怪しすぎる二人が都庁ピアノで丸の内サディスティックを即興連弾した結果... - YouTube

 

それらの動画をyoutubeで見るたびに、そんな無料で公開してる場合じゃないんだよなあこの演奏、と思っていた。

ねぴらぼとねぴふぁびの配信ライブで彼らのセッションを晴れの舞台、有料配信のグランドピアノで聴いて、溜飲が下がったが。

 

※2021/2/11開催、第2回ねぴらぼinventionの感想


そこで、上記ねぴらぼinventionの振り返りのYoutube配信感想に、当時のござさんと菊池さんのことを書いてたのを思い出したので引用する。

※振り返りYoutube配信の感想記事:2021-2-18投稿

 

ー以下、2021/2/18の記事より引用ー

♪ ミニ劇場ーーステージは戦場 編

菊池さんは背中を預けられる戦友。こう考えるとそっか、付き合っちゃえばいいのにとか今まで散々呟いててすいませんでした。もっと根本的なところで信頼しあってるんだな。

この関係性、最高じゃないですか?

ねぴらぼの感想記事の中で、everythingの連弾では菊池さんが地味にいい感じで味があるって自分も書いたけど、やはりお互い支えあって演奏していたということだ。何も言わなくても分かる、阿吽の呼吸。

突如始まるGZさんとKKTさんのミニ劇場。妄想注意。

≪ミニ劇場の番宣用ポスター。時代背景は各自ご想像にお任せします≫

 f:id:tushima_yumiko:20210218212516p:plain

  (注:★★敬称略。「戦場」から連想したござさんと菊池さんのイメージです。今回のeverything連弾の曲調とは直接は関係ない。敵を倒すという点も現実とは関係ない。どっちかというとストピの演奏寄り)

 

……GZは次々と迫りくる刺客を相手に、応戦一方となっていた。じりじりと追いつめられるGZ。と、そこへ突如炸裂する爆音。同時にもうもうと上がる土煙。その中から飛び出してきた黒い影がある。苦境にあったGZとぴったり背中合わせに敵と対峙したのはーーー

KKTさん!」

それは他ならぬ伝説の黒い剣の使い手KKTだった。音に聞こえた瞬殺の居合い斬り、その名を知らない者はいない。

「どうだGZ、苦戦してるじゃないか?」

「見てのとおりですよKKTさん。まあ大丈夫ですから見ててください」

「……(そうだな)」

放っといても大丈夫なのは分かっているのだが何故か加勢にきてしまったKKT。自問自答してみる、なぜだ?

「行きますよ、次の一手で」

「よしきた、GZ。後で例の場所で落ち合おう」

ーーー次の瞬間GZの剣がまばゆい虹色に輝いたかと思うと、その光は燃え上がる炎に変わり、火焔が一閃。陽炎をゆらめかせながら鮮やかにひらめく太刀筋。

 「………(フツーそんな技来ると思わないだろ。反則だ)」

KKTは居並ぶ敵を居合の剣で切り捨て、返す刀で袈裟懸けになぎ倒しながら、GZを横目に心の中でコッソリ呟く。

KKTさん、今です!!」

……その声に敵は飛びすさり、辺りを見回した時にはもはやGZとKKTの姿はない。二人は漆黒の衣を翻し、煙のように跡形もなく消え去っていた。

 

ーーーここまでミニ劇場ーーー

お越し頂きありがとうございました(*^▽^*)

 

≪背中合わせに戦ってる実際のコラボ動画≫ 

・ ござさんの自宅でのシンセ2台によるセッション生配信https://www.youtube.com/watch?v=hSuJ3R7ZKuk

・駅ピアノでスペイン。解説入りで分かりやすい(と言っていいのか?)
https://www.youtube.com/watch?v=knN-_ZF-d2Y

・菊池さんの動画より「チキン」のセッション。第1回ねぴらぼライブ前のスタジオ練習の合間だと思われるhttps://www.youtube.com/watch?v=SDqNMhmqujI

・これも菊池さんの動画から、都庁ピアノ連弾できらきら星https://www.youtube.com/watch?v=kH4JuQNTJp0

 

ーここまで2021/2/18の記事から引用ー

 

 

お互いにたどってきた道

上の記事は2021年2月のねぴらぼinvention後の頃のイメージだ。

菊池さんとござさんはコード進行を自在に操るアレンジ、JAZZをベースにしているところ、レパートリーがあらゆるジャンルに渡っているところなど共通点は多々ある。

しかしねぴらぼ以後それぞれのたどってきた道は全く違う。

でもお互いに色々な奏者とセッションの舞台を踏み、普段の配信をベースに色々なアレンジを探求し、また寝食の時間を惜しんでピアノの練習に邁進していたという点は共通するのではないか。

そして久しぶりに相まみえて手の内を披露し合ったのが2022年4月のねぴふぁび、その後の2023年第2回のねぴふぁびコンサートだったというわけだ。

(※第1回、第2回ねぴふぁびの感想記事)

 

あの頃から考えると。

あの怪しくきらめく妖刀のような、ござさんのピアノから立ち昇る陽炎はもう見えない。それよりもっとはっきりと影形を伴ってござさんのピアノは主張するようになったと思う。妖精みたいに実体のないアレンジではなくはっきりと正面に出て来た。

菊池さんのピアノは単に切れ味が鋭いだけじゃなく、奥行きと説得力を持った、人間味の増した重厚な世界を築いている。

今回のスタクラを聴いてそんなふうに思った。

 

 

菊池一族の家紋を考察してみる

さて、いよいよスタクラ公演日。

"菊池亮太×ござ 2台ピアノ"コーナーは、前の時間の紀平凱成さんとサラ・オレインさんのスタジオと同様セッション室とでもいうような小さなスタジオからの配信で始まった。漆黒の闇の中、小さなスタンドライトが控えめに光る。

 

クラシックがテーマの今回のフェス。

2台で対に置かれたスタインウェイのコンサートグランドピアノ。

飴色に輝く本体、重厚な木目。

このフェスで奏でられる曲にはどれも何百年という背景がある。一つの音にも物語がある。それらの曲の辿ってきた様々な道、音楽が紡いできた様々な歴史を体現するかのような、圧倒的な存在感を放つスタインウェイ

 

ござさんと菊池さんは黙ってスタジオに現れると深々としたお辞儀で挨拶をし、そして何気なく演奏を始めた。

ござさんは初めての場所のピアノではできるだけ鍵盤を触って感触を確かめる、といういつものやり方でアルペジオを流していく。菊池さんは何かの和音をひとつひとつ味わうように押さえていく……そして二人は目で合図してJAZZふうな曲を弾き始めた…

 

ござさんはノーカラーの濃い色のジャケットにリネン?のシャツ。菊池さんはいつも通り真っ黒の帽子に、全身靴まで真っ黒のコーディネート。お二人とも背景の闇に溶け込み、JAZZのアドリブがぴったりな雰囲気。

いや?菊池さんの背後から鍵盤を写すカメラにTシャツのバックプリントが大写しになると、何か武士と家紋が大きく映った……これは菊池一族のTシャツではないですか(たぶん)!最近よく着用されてる(と思う)!

これだな?いわゆる、"並び鷹の羽"の家紋。( ※家紋の引用:菊池氏 - Wikipedia )

家紋

 

菊池さんは、今年の春(3/25)、菊池の名前つながりで(そのままだな)、熊本県菊池市にコンサートで招待されていたと思う。たしかTシャツはその時贈られたグッズ。(ここでは本題ではないため詳細には触れない)

 

菊池さんの今回のTシャツには、バックにこの鷹の羽の家紋と、勇壮に駆ける騎馬武者の影が浮かぶ。これを家紋に掲げる肥後菊池氏は、藤原道隆の血筋の大宰府帥を祖先に持ち(←諸説ある)、その後鎌倉時代ー戦国時代にかけて勇猛な武将として名を馳せた一族。

Tシャツの背に踊る騎馬武者は、鬨の声をあげながら一気呵成に攻め込んでくる軍勢の先頭に立ち、高々と名乗りを上げながら駆け抜けていく武将の姿に重なる……

(※肥後菊池氏は、元寇でも鎌倉幕府御家人として活躍している。下記の絵巻で、中央より左寄り、防塁の上で赤い扇を持っているのが第10代菊池武房。さらに左寄りには、並び鷹の羽の家紋を染めた幟も見える。 リンク:元寇 - Wikipedia )

(※絵巻物全体の解説 → 蒙古襲来絵詞 - Wikipedia )

一式着用すると何十キロにもなる重量の鎧兜をつけて騎馬を操り、流鏑馬に見られるような武芸を競う。大ぶりな太刀(江戸時代の日本刀とは違う)やなぎなたをふりかぶって勝負を挑む。平安時代末期から戦国時代にかけての武士の、そのような尚武の気風を今に伝える菊池一族。

家紋が染め抜かれた衣装を着て漆黒の背景に溶け込む菊池さんは、飾るものはなくともピアノ一本で勝負を挑んでくる生粋の武士さながらだ。

 

 

即興的なスタイル

この音楽フェスのテーマはクラシック。

何百年もの時間を経て表現の形態を様々に変えてきた分野。

今回の公演でも吹奏楽や声楽曲、独奏曲や協奏曲などに幅広くフィールドを広げながらも、フェスならではの軽快で親しみやすい曲調で統一しつつ各奏者の個性が前面に出された演奏が続く。

クラシック音楽の中には、各時代に受け入れられた曲ばかりではなく後世の研究によって光が当たった曲も多い。そういう曲の中に聴衆は時代を超えた普遍的な芸術を見出すのだ。

 

クラシック音楽演奏家はつまり原曲を最大限尊重した解釈のもと、そこに独自の解釈を加えて演奏する。原曲こそが芸術的存在という前提のもと。

 

菊池さんとござさんの2台ピアノ演奏はこのフェスの出演者ラインナップの中では唯一無二の個性的な存在、限りなくアウェーな舞台だったと言っていいだろう。

なぜなら彼らの演奏の看板に掲げられているのはプログラムにもある通り即興演奏、曲名は未定、JAZZアレンジを得意とするゆえに常に演奏内容は流動的だからだ。

しかしプロの音楽家にというか音楽家に限らずプロとして活動していくうえで最大の武器もまた個性であるから、クラシック曲のファンが集うこの公演で、また配信だから全国から視聴されているわけで、そこで独自のアレンジによる独自の演奏を披露できたのは、今思えば千載一遇のチャンスだったのではと思う。

フジロックフェスがロックファンとロックバンドが集う中、ピアノで挑んだ舞台であったように、この公演もまた既存のジャンルに向けた挑戦だった。

しかし彼らはそんな既存の壁などまるで最初から無かったかのように、軽やかに優雅に駆け抜けていったのだ。

 

 

ではそれぞれの曲について思い出してみよう。

乙女の祈りバダジェフスカ作曲)

この曲名だけ見ると、オルゴールとかでお馴染みの繊細で儚いイメージの曲。ピアノ曲としても有名で曲名はともかく部分的にいえば誰もが聞いた事はあるだろう。

冒頭の曲だから耳になじむボサノバとか軽く聞ける爽やかなポップス調とか……お料理屋のお通しみたいな存在だよね最初の曲は、どんなのかなあ?と色々考えていた自分の予想を裏切って、JAZZ調というか手を加えないがっつりブルース調の骨太アレンジになっていた。

美しい主題が華奢なイメージで提示されたのはほんの束の間、アドリブの応酬の中に主題モチーフが様々に見え隠れしながら静かに熱を帯びていく。シンコペーションのブルースのリズムに乗って、互いのアドリブに思わずたまらないというような表情を浮かべる二人。

しかし主題の持つわずかに憂愁を帯びた雰囲気を受けついで(?)、誰かが演歌っぽい旋律を入れ込んできた。

どっちだwww?

ござさんだ( ´∀` )www

やっぱりな!

寡黙なように見せかけて人目を欺きながらも、本来のところお茶目なのはござさんの方なのだ、きっとそうだWWW

しかし何かの曲ではなく乙女の祈りのモチーフを演歌っぽくしたらしい。返す刀ではないが菊池さんも独自の演歌モチーフを提示してくる。おおっそうきたか。

……ここでブルースとはなんだったのか思い出してみよう。乙女の祈りはブルースっぽい旋律ということで、つまり演歌もそのジャンルに内包されるのだ(誰の説だろう)。

ブルース(Blues、英語発音・[blú:z])は、米国深南部でアフリカ系アメリカ人の間から発生した音楽の1ジャンルである。19世紀後半ごろに米国深南部で黒人霊歌、フィールドハラー (農作業の際の叫び声)や、ワーク・ソング(労働歌)などから発展したものといわれている。

ーー(中略)ーー悲しみ・憂鬱の感情は英語では「ブルー(blue)」の色でたとえられることに由来している。ブルースは悲しみ・憂鬱の他に「恋の喜び、セクシャルな内容、時事問題、白人社会や人種差別への反発」など、喜怒哀楽、あらゆる感情を表現している。(引用:ブルース - Wikipedia

 

喜怒哀楽、あらゆる感情を表現する音楽、まさに演歌じゃないですか。楽しい、綺麗、だけじゃない人生そのものを歌う演歌。

とかなんとか理屈ぽく考えながら配信を聴いていたわけではない。自分は本番のときは緊張して真っ白になって聴いていたので(単に聴く側なのに)、演奏が無事に滞りなく進んでいたことくらいしか当時は覚えてない。これらの考察はアーカイブ聴いて考えている。神の恵みですアーカイブ。ありがとう。

そんな配信当時は紙みたいに真っ白になってモニタを眺めてた自分をよそに、菊池さんとござさんはアドリブの熱も最高潮になるなか、なにげなく乙女の祈りの旋律に原曲調ふうに戻っていき(しかも二人同時に)、まとまり良く終わるのであった。この展開どうするんだという自分の心配した気持ち返してくれ(ほめてる)。

 

幻想即興曲のアレンジ版:このフェスでただ1つの決め譜

菊池さんとござさんの茶番劇…いや小芝居……楽しいMCを挟み、なごやかな挨拶とトークを経て、演奏は続く。

「早速なんですけど、次は…おひとりでやっていただく、という!」

「ほんとですか……!」

「……らしいです!」

はい、今日も世の中は平和に回っております。少なくともこの二人の中では…www

「決してあらかじめ決まっていた枠というのではなく!」

わかりました、そうゆうことにしといてあげましょう(何様だ)。

 

前置き長すぎ問題。

つまり冒頭のセッションを経て、次はお二人それぞれのソロ曲枠ということだ。

 

ござさんのターンでソロ曲に掲げられたのは幻想即興曲のアレンジ版だった。以前に単独の曲としてYoutubeに動画も上げられている。


今回のフェスで皆さまお聴きの通りです。そしてこのYoutube動画が挙げられた時点でこの通り驚愕の演奏だったわけですが。クラシック曲をサンバ調にアレンジ、また左右の手で拍が違うクロスリズムという具合に、独自に改造されている。

 

自分の認識としては。

ござさんも他の奏者と同様ピアノの入り口ではクラシック曲を長年習得されてきたわけで、Youtube生配信を聴けば分かる通り、クラシック曲にも造詣は深い。そして自在に他ジャンルと交錯したアレンジに配信の中で即興で演奏されるくらいにはどの曲も楽曲の構造まで手の内に落とし込まれている。

数々の独創的なクラシックアレンジを、自分は他の動画とか配信でも鑑賞して楽しみつつ、それはござさん自身が楽しんでいたからだろうけど、今回クラシックフェスに出演!ということでソロ枠では何の即興アレンジを出してくるんだろう!ござさんは即興でやってる時が一番楽しそうで、輝いてて、アレンジも洗練されて素晴らしいからな!って自分はそこをフェスの目玉に据えていた(独断と偏見による基準で)。ソロ枠に何が来るかを。

 

しかし幻想即興曲のアレンジ版、というわけでソロ枠は即興アレンジではなくまさかの決め譜だったということだ。

あのアレンジはござさんなりの解釈の完成形であり、楽曲研究の粋であり、それをたたき台にして他ジャンルも含めたアレンジに生かすという名目があったんじゃなかったんですか?

今回の大舞台にそれを持ってきます?

って自分は一瞬のうちに思考回路がいつもの100万倍くらい回転してなんでなのか考えた。

即興アレンジやってるとうっかり他の曲がナチュラルに混ざって、その中にはクラシックといえども著作権上配信できない曲が混ざると運営上問題になるから冒険は避けたのか?

とか、

ガチクラシックファンが集う今回のフェスだから曲目もガチクラシックのアレンジを持ってきたのか?(聞く人が聞けばますます面白いはず)

とか、一瞬で自分は色々と仮説を立て、そんな些末なことに囚われてると演奏を楽しめないことに気づき、やっぱ目の前の演奏を楽しむことにした。

 

この曲だけを正面から聴けば、

Youtube動画の時点(つまり約一年前)で完成されてた演奏がさらに最初のターンの左右で拍が違うところは右手の旋律じゃなく逆に左手の低音が主役に聞こえるように歌ってるとか。

さらに自然に聞こえるように徹底的に弾きこんできたのだろうなとかひょっとして八月はずっとこの曲練習してたんじゃないかとか。

やっぱ真ん中のゆっくり歌うゾーンのボサノバが一番のびのびしてて、やっぱこのゾーン大好きなんだろうなって思ったとか。

あのYoutube動画だとシャープに聞こえた音の輪郭がスタインウェイの深い響きに包まれてより深みのある曲に変貌している、とか。

ひょっとしてルパン三世のテーマの連弾アレンジよりもキメどころだらけな曲で、聴いてて自分で勝手にここが決まるとかっこいいぞってところで勝手に息を詰めて待ってしまう、とか。こんだけキメだらけの曲を生ライブに持ってくるというのがござさんの決意の顕れみたいな気がして、自分はその気持ちを真摯に受け止めた。

ごめんなさい即興アレンジ聴きたかったとかいって。最初の乙女の祈り演歌アレンジで度肝抜かれたのが、緊張のあまりどっかにすっ飛んでただけでした、すいませんでした。

自分なりにこだわりポイントはいくらでもあって、というか最初の劇的なキメどころがござさんの紹介文に隠れて鍵盤が見えないじゃないかー!というのはしょうがないので我慢します。運営さん、素敵な紹介文の添付ありがとうございます。

 

※ござさんのクラシック曲の演奏動画で決め譜のものは他にもある。

これは既存のアレンジ版の演奏。しかしタメや間の取り方、鍵盤のタッチがありありとござさん独特のものなので、やっぱファンとしては聴き入ってしまう動画。(え?感想になってない?しょうがないじゃん……)


こちらも同様にショパンの曲、こっちはござさんがメドレー版に仕立てたオリジナルアレンジ。

ござさん独特の世界観。


 

 

挑戦する姿勢ーー菊池さんの場合

ござさんはソロ枠で単独の曲だったが、菊池さんはメドレー仕立てにするようだ。いわく20世紀になっても活躍した作曲家群による、著作権ぎりぎりメドレー。

「演奏する曲によっては著作権の関係でアーカイブが残らない危険があるという……」

「それを懸念して、」

「はい……」

著作権ぎりぎりメドレーをやろう!という……」

なんでですかwwwww大草原不可避wwwなんでそこでそうなる!???

ぎりぎりっていわれて敢えて挑戦するタイプなのだろうか菊池さん。そこに菊池さんの覚悟を見た。………いやいやいや、アーカイブ残らなかったら緊張で頭真っ白になって配信の画面見てる、自分の記憶はどうなっちゃうんだーーー!ヤメテーーー!燃え尽きて灰しか残らないじゃないかーー!って画面の前で勝手に阿鼻叫喚の状態を呈してる自分をよそに菊池さんのソロ演奏は始まった。

最初はグリーグペール・ギュントから朝、そして同じくグリーグのピアノ協奏曲の有名な冒頭部分、それからファリャのバレエ音楽「恋は魔術師」から火祭りの踊り、ラヴェルの亡き王女のためのパヴァーヌ、……それからラフマニノフの曲にラプソディーインブルー、と菊池さんの代表的レパートリーが並ぶ。

 

時代的に20世紀まで生きた作曲家が多いメドレー、ロマン派や古典派の古風な作風から脱却して民族音楽に傾倒したり現代的な不協和音を多用したり、今聞いてもアグレッシブな曲ぞろい。時代の先鋭を担ってきた作曲家の矜持のようなものを感じる。

電子音楽が現れるまでの時代の激動の潮流を生き抜いた彼らの感性を、菊池さんがダイナミックな表現でありありと鍵盤に映し出す。

 

菊池さんの背に菊池一族の騎馬武者が踊る。

彼は無言のうちに菊池さんのピアノを聴き、護ってくれているのかもしれない。つかず離れず影のように。

 

スタインウェイの最低音から高音域まで自在に掌中に納め、縦横に楽器を響かせる。

ラヴェルの繊細な旋律は夢見るような甘やかな音がひそかに空間に広がる。

ラフマニノフの重厚な和音はスタインウェイの限界を超えているかのような轟音が鳴る。地を這うような音圧が飛んでくるが不思議と怖さはない。

 

そう、自分が初めて菊池さんのピアノをYoutubeで見た時(2020年3月)に感じたような刃物のような鋭利な響きは姿を消した。多様な楽曲と共にさまざまな舞台を踏み、さまざまな声援を受け取ってこられたことで、その掌から生み出される音楽は円熟の域に達している。円熟というには年齢が早い?そのような無粋な指摘がもしあるとしたら、言い換えれば菊池さんのピアノは今最も脂が乗っている。

もし有観客で開催されていれば、迫力満点を通り越してその場を支配するかのような圧倒的存在感にあふれる演奏を前に、満場の喝采を浴びていたであろう菊池さん。

 

而して再びマイクを手に発した第一声は

「これアーカイブ、遺せますかね…?まあいいや、フフ」

とどこを見るでもなく誰に言うでもなく、ささやくようにつぶやいたのみ。

……と言うや否やマイクをガタガタとぞんざいに置くとまたあらぬ方向を向いてアドリブを弾く菊池さん。

ひとことで言うと。

挙動不審なんですよwwwwもっと堂々としてください、画面のこちらでは拍手喝采でしたが!アーカイブ残ってほしいのはこちらも願ってますから!

 

ユーモラスじゃないユーモレスク

結果論でいえば、菊池さんが著作権ぎりぎりメドレーとかやってたのは本気でぎりぎりだったようで、そこは確信をもって計算してたのかなんとなくだったのか今となってはわからないけど、ドキドキしてたのは小芝居でも演技でもなくマジだったらしい。

アドリブだと思っていたのはどうやらユーモレスクの旋律?かなあと思っていたらなにげなく画面の手前からアップで現れ、なにげなく伴奏に入るござさん。

なんでそこから現れるんですかござさんwwww

たぶん無言でユーモレスクが始まってしまったので「あれ?」ってなって、とりあえず入らなきゃってなったんですね(想像)。

この曲の後のMCでも気が動転してるふたりでした~~ってお互いに言ってましたしね。まあどんなタイミングからでもお互いのリズム感で演奏始められるから大丈夫ですね(?)。

 

今回演奏された2台ピアノ版の乙女の祈りはこの夏の公演で二人でアレンジを磨いてこられた楽曲であり、つまりこのスタクラフェスが一番舞台をこなしてきて洗練されてたアレンジ、と理論上は結論付けられる。

ユーモレスクも同様に以前(たぶん2022年4月のねぴふぁびコンサートで)菊池さんとござさんの2台ピアノで演奏されていた。ねぴふぁびは有観客公演だったが同時に配信もされており、アーカイブは今年の11月23日まで視聴可能、かつ購入可能です。

下記のリンクよりどうぞ。

 

※ねぴふぁびはその後第2回公演が2023年1月にも開催された。それらの感想記事のまとめ(全部で7つある)。繰り返すがユーモレスクは2022年4月の第1回ねぴふぁびでの演奏。(このリンクは記事の最初のほうに貼ったけど再掲)

※ ↑↑この感想の中ではユーモレスクは「JAZZふう、それとバッハとかのバロックふうアレンジ」と短く触れているだけである。自分はJAZZもバロック風もくわしく書けない素人なのでそこはサラッとスルーしたんだっけ、そうにちがいない。

 

今回のふたりのアレンジはいうなればガチswing jazz(たぶん)。なんでだろ、バロックふうを混ぜると他の枠のクラシック曲とかぶったりするかもだから、避けたのだろうか?

JAZZ特有のシンコペーションやちょっと憂いをおびた和音のハモり、通常とは表裏が違う拍の取り方……まず旋律を提示する菊池さんに、(ほんとに)フラッと現れて絶妙なタイミングでバッキングに入るござさん。ここがまず即興、たぶん。

JAZZは即興アレンジが聴きどころ、モチーフの展開も奏者によって違うくらいに、同じ演奏はないと言っていい。swing JAZZがどういう音楽か、それは熱く燃える魂です(素人の持論)。

こんなとこでくだらない御託を並べてる記事なんてほっぽって、リズムの枠に納まりながらも熱量がアウトしまくる2人のアドリブ、ストライドのリズムに乗るバッキングに黙って身を任せ、一緒に熱く燃え上がるんだ。その熱量が頂点に達したと思われるときござさんが眼光鋭く、射るように菊池さんを見つめる瞬間があって、菊池さんもまた曲の展開に堪らないというような表情を時折浮かべ、そこが聴きどころかと素人の自分はタイミングを探る……

 

ちなみに。この曲はユーモレスクです。JAZZふうですがユーモレスクです。誰が何と言おうと。ラプソディーインブルーが一瞬入ってましたがもっと色々あるだろとツッコミある方もいるかもですが、気のせいです。

 

 

ボレロへのリベンジ

「いや~突然始まりましたね~(何してくれてんですかwww)どういうことwww?」

「あ~著作権ぎりぎりすぎて、アーカイブ大丈夫かな、残るかな、あれっってなって動揺してました(-_-;)」

「www………えーとユーモレスクは、チャイコフスキー?」

「いや……www、ドヴォルザークです」

「あっ気が動転してましてwww」

「どっちにしても大丈夫ですねっそんな気が動転してる二人でお送りいたします」

段々こなれてきたお二人のMC。

もはや小芝居でも茶番劇でもない。いつもの定番の寒いギャグではなく、菊池さんはほんとに動転してたし、ござさんはだんだん舞台慣れというかMC慣れというか、回を追うごとに落ち着き払ってきた。そんなピアノ以外での変化が見られてファンとしては陰でこっそり喜んでいるのであった。

 

さてこの二人による2台ピアノ演奏のトリを飾るのは数あるクラシックの名曲の中でも変わり種として名高いボレロであった。渋い。選曲が渋すぎる。

………いえいえこの曲も、前の2曲と同様、二人にとっては今までの足跡の中に大きな一歩を刻んだ曲である。

2人というか4人。そう、ねぴらぼinventionのトリ曲も、ボレロだった。あの時とは編成が違うけど。2台ピアノ、シンセサイザー多数、ドラムスにパーカッションというもう再現できないであろう贅沢なライブ。鍵盤を愛する奏者のための鍵盤天国ともいうべき特殊な舞台。

※この記事のリンクも冒頭に続いて再掲するけど、ねぴらぼinventionの感想。

 

↓↓↓ この ねぴらぼinventionの感想から、ボレロの部分を引用しておく。今回と、比較して研究してみるのだ(←無理)。 

ー以下引用ーーー

原曲に素直なセッションアレンジ、キタwwwと思った。 最初に指揮してる二人は気のせいです。ござさんは実際にこの曲で指揮でもしてたんかしら?

なので自分も原曲に沿って説明でもしてみるか。まず最初スネア1台とフルート1本から始まるんだよねーおおー本当にピアノ片手だけだwww……いやその前に菊池さん?ピアノの譜面台叩いて何やってんすか?あっスネアと同期してるんすねwww で、各楽器のソロパートをメンバー4人のソロ回しでつないでいくわけですが。

かてぃんさんー最初のB♭cla.あたりのシンプルなソロを浮遊感溢れるお洒落アレンジで弾く。
菊池さんーそれに続く静かなはずのゾーンでなぜか旋律からして転調しまくり?、それに続く和音も変なのばっかねじ込み、うえっナンダコレ!!!!?元に戻れなくなったじゃないか!という所でシレッとつなぐ。≪実際の転調しまくりの例。菊池さんの演奏。≫

twitter.com

けいちゃんさんー前のソロがだいぶ時空がねじれていたので、JAZZぽく和音いじってるけどすごい素直にオーソドックスに聞こえる。
ござさんーさらにテンポからしてJAZZぽく崩してくる。ソロ楽器のビブラートをひたすらアルペジオで埋め尽くす。息つく暇もない華やかアレンジ。しかしあやしい雰囲気。くるみ割り人形のコーヒー《アラビアの踊り》的な?

 かてぃんさんのmoogから始まり、全部のシンセで旋律回していこうっていうアレンジでしょうか、各楽器で回す代わりに。これ以上は煩雑になるから書きませんけど、ひとこと言っていいですか?なんでピアノセッションに本物の銅鑼があるんですか?

  さらに疑問。なんでINVENTIONなのにトリがクラシックなんだろ。始まりはバッハだったのに。Lingusにすればよかったんじゃ? まあクラシックとはいえソロ回ししてるのは全部シンセですけどね。グランドピアノは最後以外はひたすらリズムやってるだけ。そうそうリズムがどんどんボリュームアップしていくアレンジがこれの聴き所。

ーーーここまで引用ーーー

 

 

ボレロは、印象派の作曲家ラヴェルの作品の中でも特段異彩を放っている。

・最初から最後まで一つのクレッシェンドから成る。逆はない。

・メロディは2パターンのみを最後まで繰り返す。ラストだけ一瞬別メロディーが入るだけ。

・最初から最後までスネア(小太鼓)の刻む同一のリズムがベースにある。指揮者はいらない。スネアが全オーケストラを導く。

・コンテンポラリーなバレエの音楽として作曲された。全幕物とかでもなく組曲版も存在せず、ボレロボレロである。

というシンプルな構成だけど2パターンの旋律の展開は、全オーケストラの楽器を渡り歩いて複雑な構成で変化していく。ソロ(または2管)楽器だけでも10ほどの楽器を経るのである。

 

ずっと途切れないスネアドラムの決まったリズムを二人で同音連打でつないでいる。

ちょっとマニアックなこと言わせてくださいね(と言って勝手に語る)、最初の旋律の提示はござさんで、原曲でいう3~4つの楽器のソロをまとめてますが、シンプルな最初のフルートソロ部分から徐々に楽器が増えていくと響きに厚みがでてくる。バッキングの菊池さんもだんだん和音を増やしてるのですが、原曲だと旋律楽器が増えてくるのをござさんはピアノで旋律の最後のフレーズだけペダルの踏み方を変えて、微妙な管楽器の和音が豊かになるのをちょっとだけ表現してるんです。え?マニアックすぎる?スルー推奨ですwww

※原曲では旋律の入れ替わりのタイミングで、スネアが刻むリズムと合間の装飾音、つまり伴奏部分の管、弦楽器がちょっとずつ増えていく。そうすることで徐々に無理なくボリュームが上がっていくのだが、その楽器数が増えて響きが豊かになる瞬間を、をござさんはペダルを使って意識的に部分的に響かせることで表現したのだ、と言いたい。

 

ねぴらぼのときのソロ回しの分担は今回さらに細分化、または変更してるのか違いは置いとくとして。あの時代とは二人とも変わったということだ。さらに豊富になったアレンジの引き出しや和音のバリエーションの変化をとくとお楽しみくださいって言われてるかのように、自分には聞こえた。

比べるのではなく変化を楽しみたいと思った。

 

この多彩な音遊びを聴いていて気づいたが、自分は楽曲をどのように演奏されるのか楽しみにライブを聴くというよりは、彼らがどのように音楽を表現するのかが楽しみで聴いているのかもしれない。

彼らの作る音楽だから、聴きたくなる。

音楽を通して滲み出る彼らの人間性の豊かさのようなものを堪能したいという欲求なのか?

 

この曲も素人の変な解説はせずに、二人の妙技を存分に楽しむ時間にしたい。

 

リズムと旋律はそのままに、和音展開の変化だけで楽しむ二人。長調の原曲にねじ込まれる不協和音、また異国情緒ふうに変換されたメロディ。

原曲の弦楽器が加わって全合奏になり一気に倍音が豊かになる華やかなメインの旋律を、ござさんはさらに装飾音代わりの繊細なグリッサンドで盛り上げる。

ここの印象の変化を鍵盤楽器でどう表現するかってグリッサンドときた、すごくない?(もはやひとりごと)

 

 

追記:ボレロを物理的に徹底的解剖してみるコーナー

このブログではあんまり演奏の細かいことを原則は書いてない。自分は素人だし、演奏をどう捉えるかは聴く人によるからあくまで客観的な内容にとどめていた。

しかしボレロの細かいことを書きたかったけど、やっぱあくまで個人的な意見なのでTwitterに書いてたら「暗号みたいで日本語じゃないからわかりやすく書いて」とか色々ツッコミがあったので、例外的に、どういう意味だったのかの説明をしときます。

アーカイブ期間も延長になったので。(9/12(火)まで)

※つまり、このコーナーは、そんな曲の構成とか知ってるし?という方はスルーしてください。単なる実況中継のため。

 

画像等の引用:ボレロ (ラヴェル) - Wikipedia

 

曲の冒頭からスネアが刻むこのリズムで全体が統一されている。

冒頭はスネアだけ、そこから徐々にひとつづつ楽器の数が増えていくこのリズム。(スネアだけは休まずリズムを刻み続けるためリアルの管弦楽団でも大変なパートだが)

しかしピアノだと一人が旋律、一人がリズムと交互に担当を受け渡しながら曲が展開するため、毎回その交互の受け渡しの瞬間が聞いてる側は緊張するのだが何事もないかのように毎回ナチュラルにつないでてすごい。そして一人がリズムなら一人は旋律という具合に必ずお互いで別々のことをやってるので、ともすれば拍の数え方がずれて破綻しそうになりそうなものだけど、まったくそんな不安がない。

 

原曲では弦楽器がピチカートでやってる合間のリズムとは。上記のスネアのさらに合間のこの拍。(休符が間に入るはずだけど)この裏のリズムが、曲の冒頭だとスネアも最小の音でこの合間のリズムも微かな音で、それをピアノの音で挑戦出来うる限りの微細なタッチでやってて、ふんわりと弦が弾くようすまで感じられるかのような印象がある。

特に、菊池さんの冒頭の左手で刻む裏のリズムがほんとに気配を消した忍びの者みたいな潜在的存在。でもはっきり主張してる、ふしぎなリズム。

この裏のリズム、弦楽器のピチカートに加えて、曲の展開に連れて管楽器パートがひとつづつ増えていくのだが、そういうようすも見事に演奏されている。

 

ボレロの旋律にはAとBがある。

というかAとBしかない。その二つを最後まで繰り返す構成。つくづく特殊な造り。

今回のスタクラでも最低限、この構成と展開は踏襲してる。冒頭の旋律をAとして、ござさんから菊池さんへ受け渡された後、ござさんからBを提示して菊池さんのBへとつなぐ。その菊池さんのB部分が転調しまくりだった(たぶん)。

上記に書いた裏のリズムの和音に変化を入れたり、旋律に装飾音をつけたり、というか旋律のリズムをJAZZふうに揺らぎを加えたり、菊池さんみたいに旋律自体の和音をがっつり転調させたり、……随所にみられるJAZZアレンジ。二人にかかれば、現代的な管弦楽も、一瞬たりとも聞き逃せないエンタテイメントに変貌する。

 

ここで、自分が個人的に好きな箇所だけどスタクラではたぶん弾かれなかったパートについていちいち解説したい(個人的に好きだから)。

各楽器のソロを経てテナーサックスとソプラノサックスが妖艶な音色で盛り上げた後、この不思議な響きのパートがやってくる。

人工マニュアル倍音設定のピッコロ・ホルン・チェレスタとは?

楽器が発する音、人が耳にしているそれらの音は通常、いくつもの倍音を含んでいる。音の物理的組成は波であり、複数の高さの音を同時に耳にすることで、人はその楽器の音を豊かな表情を伴ったものとしてとらえている。

参照リンク:倍音 - Wikipedia

ここでラヴェルは人工的に倍音を楽曲の中に織り込み、それぞれのパートに分散して担当させることで倍音の再現を試みている。具体的にはパイプオルガンの演奏時の倍音を想定しているらしい。(下記参照)

 

※引用:ボレロ (ラヴェル) - Wikipedia

曲中、旋律が完全に並行音程で重ねられている箇所があるが、オーケストラの中で非常に新鮮に響くこの効果は、パイプ・オルガンで日常的に使用される倍音の組み合わせを採り入れた手法と言われている。実際に奏する鍵盤にとって倍音関係にある音の発音されるパイプ群が並行音程を保って装備されており、それらを自在に組み合わせることによって種々の倍音構成を特徴づけるという技術は、パイプ・オルガンにおいて複雑な音色を生み出す常套手法である。ーー(中略)ーーホルンの実音が基音とみなされ、それに対して第2倍音チェレスタが、第3倍音をピッコロが、第4倍音チェレスタが、第5倍音をピッコロが、それぞれの楽器の実音によって重ねられることで輝かしい音色が生み出されている。実際のパイプ・オルガンにおいての例としては、ストップを8' + 4' + 2 2/3' + 2' + 1 3/5'の組み合わせによってホルンパートを奏すると、実際と全く同じ音の組み合わせができあがる。また、それらをもっと高次倍音とみなして別の組み合わせで同じ効果をもたらすこともできる。

 

パイプオルガンが(設置されている教会とかの環境によるのもあるが)絶妙な音響効果を生むのは周知の事実だが、ラヴェルはそれを管弦合奏で再現したということだ。

それで、たぶんこのパートが抜けてるというのは、菊池さんとござさんでボレロのアレンジを検討しつつ、この和音構成の展開よりもおもしろい和音を投入した方がアグレッシブで奇抜、かつ意表を突いたものになるのでは?となって、オーソドックスな原曲通りの進行はあえなく切り捨てられただけ、ということなのでは?

と思ったのでそんなツイートを書いた。全部あくまで想像にすぎない。ひょっとして部分的にどっかにこの和音は組み込まれてたのかもだが、自分はそこまで聴き取れなかった。

ラヴェルの設計した和音もたいがい現代的だけど、最低限の規則性があって安心感はどこかにある。しかし二人の投入してきた和音はひとつひとつが思わず唸る響きを持っていて、その独創性にただ圧倒され驚嘆するのみ。

 

ここで唐突に自分の好みの表明。そんなんどっちでもいいでしょ。というわけでみんなどっちの旋律が好きか考えてみるコーナー(いらない)。

自分的にはAは古典派(の音選びにちょい細工した)イメージ、Bはラテン音楽か?っていうくらいいきなりバージョンが飛んだ印象がある。

 

管楽器、その後弦楽合奏も加わる旋律の演奏は、おもに見どころはおだやかに語られるメロディと長くのばされる音によるビブラート。だと思う。その表現をピアノに持ってくるにあたって、旋律は最後まで繰り返されるモチーフであるからどう変化をつけていくかが聴きどころなのだけど、二人の独創性はそこにも存分に盛り込まれている。

和音の響きも、そしてこういうところにも、原曲のクラシカルにして前衛的な響きを失うことなく全く新しい独創性が付与されていて、最後まで手に汗握り、息を呑む展開が繰り広げられている。

 

ここで突如、こっそり菊池さんの音と和音について語るコーナー。

ほんと菊池さんのピアノはつべこべ理論で考えるのではなく全てピアノが物語っているから……音に酔いしれるのではなく、明瞭に示される道筋に従ってついて行けばいいのだ。

ここで特に書いたのは終盤。旋律に散りばめられた複雑な和音にあれこれ考察を加えるのも、終わりのない謎解きのようで楽しみは尽きない。しかし圧倒的にして圧巻なのはここに書いた通りリズム部分である。

2:28:00前後ごろからの菊池さんのBの旋律、そこからのリズム部分が文字通り息を呑む圧巻の世界観。

微かな弦の反響で始まったこのリズム、菊池さんによって空間をも飲み込むようなスケールに変貌をとげている。無防備に聴いているとそのまま足元から引きずり込まれそう。

……調べたらリズム部は弦楽五部じゃなかった、バイオリン、ビオラ、チェロだった。しかしそれらの弦楽合奏木管楽器、さらにホルンが加わる重厚にして華麗な倍音が響く。この震えるような華やかにして重厚な響きを、菊池さんが体現している。

黙って鑑賞するのみ。

旋律部にはダメ押しで金管=トランペットまで加わる様子をござさんのピアノが縦横に駆け巡って表現し、菊池さんもリズムを弾きながらいくつもの和音を押さえて一緒に響かせている(手がいくつあるんだと一瞬目を疑う)。

お二人とも、一人でソロピアノ弾いてると実際に想定してる和音とか跳躍を弾き切れなくて指が足りないって思うと言われていたりするが、でも2人揃ったら揃ったで、やっぱり想定してる和音は全部は弾き切れていないのではないかと思う。

そうして狂乱の渦に巻き込まれそうになりながら、最後の和音をきっちり合わせてくる二人。

bravo!

 

ーーーーーここまで追記。

以上、物理的に徹底的にボレロを解剖するコーナー終了。

 

 

ずっとクレッシェンドで盛り上がっていくダイナミクスの付け方も二人で揃っていて圧巻。ただ16分音符で刻むリズムを終盤は全楽器でやるのでピアノだと両手の和音でずっとそれを刻んでて、もはやそれは人間に可能な技なのか分からなくなってきた……

 

たぶん、この和音のねじ込みようは、即興ではなく、ねぴらぼのアレンジ譜を紐解いて二人で徹底的に議論して練り直して練習してきたのではないかなと思う。

しかしコード進行だけ決めて細かい事はその場で考えよう!程度の話し合いに終わったかも、というのは想像に難くない。

当日のチャット欄に一言だけ一瞬見えたコメント。

"これが即興?うそでしょ?"

 

………完全ではないけどかなりの部分即興だと思うよ?と自分は心の中で突っ込んだ。

プログラムのコメントにも書かれてましたよね。

即興多め、と。

 

 

スタクラの視聴者はクラシックファンが中心を占める、はず。

とすると二人のJAZZアレンジと即興アドリブ中心の演奏は全く違う要素だったと思うので、前述したが、演奏家としての最大の強み、個性というのは前面に出せたのではないかと思う。

JAZZ奏者とも微妙に違うスタイルのクラシック音楽を取り入れたアレンジ。それはSwing JAZZに共通するものがあるとは思うがそれとはまた別の方を向いて進んでいると思う。

ござさんと菊池さんはこの夏のいくつもの舞台を踏んだ。それらの交錯した地点を振り返りつつ、彼らはまたそれぞれに歩き出すだろう。

歩みを止めることはできないし、彼らが留まることを自分らファンは望まない。

なぜなら芸術家の表現は刻一刻と変化していくものだから。

 

次に会う時はまた別の顔を見せてくれるだろう。

それがどういう姿に変貌しているか、日々の配信などを聴きながら心待ちにしたい自分が心のどこかにいる。いつか分からないけど、また会える日を楽しみに待ちながら。